Webコラム

日々の雑感 379:
映画『えんとこの歌』が問いかけるもの

2019年2月12日

 『えんとこ』(1999年・伊勢真一作品)から20年後に制作された『えんところの歌―寝たきり歌人・遠藤滋』は、2016年夏に起こった相模原障害者施設殺傷事件(元職員の植松聖が入所者19人が刺殺し、26人に重軽傷を負わせた)に対する伊勢真一監督の怒りと反論の叫びのような映画である。あの事件が伊勢にこの映画を作らせたのだと私は思う。
 犯人の植松は「意思疎通がとれない重度・重複障害者を育てることが、莫大なお金と時間を失うことにつながる」「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」「安楽死の対象にすべきだ」「殺害した自分は救世主だ」と言い放つ。
 「いや違う!」と、この映画『えんところの歌』が叫んでいる。
 主人公の遠藤滋は72歳、脳性まひで寝たきりになって35年になる。24時間、介助者の支援なしでは生き続けることもできない。介助者たちがシフトを組んで一時の隙間もなく飲食、排便、口内ケア、身体の洗浄など介護し続けることで遠藤滋の“いのち”を支える。35年間で学生、社会人など2000人がその介助に関わってきた。
 「えんとこ」とは「遠藤滋の居るところであり、縁のあるところ、という意味で名付けられた、いのちを生かし合う居場所」である。
 カメラはその介助の様子、今は発声も困難になってきた遠藤と介助者たちの“会話”や“交流”を淡々と撮っていく。
 私は非難と軽蔑を覚悟で正直に白状する。
 介助の様子を淡々と映し出す映像を観ながら、当初私は「他人の介助なしでは一日も生きられない遠藤さんにとって“生き続ける意味”とは何なのか」という思いが頭を過ぎった。それは、私のなかに無意識に潜んでいる「人間が生きることには何かしらの『生産性』『意義』があるべきだ」という「優生思想」につながる思いがあるからかもしれない。それをこの映画に突き付けられ、今さらのように気づかれて、私はぞっとした。
 私は自分の一日を振り返るとき、「今日は何も生産的なことをしなかった」ことを激しく悔い、自分を責める。「何をしているんだ!この怠け者!」と。つまり私の中に「生きるとは、生産的なことをすること」という不文律な定義があることに気づくのだ。

 そんな私は遠藤滋の言葉にハッとさせられる。
 足で書かれた大学時代の日記だ。
 「ぼくはデモにきた。僕は人間なんだという強い決心を持って。だが友人たちの足手まといになるのではないかとずっと悩まされつづけきた。否!人に迷惑をかけること、それは大いに必要なことである。僕のハンディを武器とせよ! 生かせるものを全部生かして自分の持っているものは全部使って、逆手にとって、プラスに転じて、それを武器にして生きると心に決めた」
 また前作『えんとこ』の中で遠藤自身がこう語る。
 「寝たきりの生活をするようになったときは、やっぱりショックだったことは確かなんですけど、それを引き受けて生活をしてみたら、これがなんともおもしろい生き方だったか。ほんとうに感じますね。寝たっきりになってよかったぐらいです。置かれた状況の中でそれを引き受けて、その中でやれる限りのところまでやってみるということがすごく大事なあと思いながら、毎日生活しています」
 私たちから見れば、「自分なら、ここまでして生きていたくないなあ」「かわいそうに」と思ってしまいがちなその当事者が、「これがなんともおもしろい生き方だったか。寝たっ切りになってよかったぐらいです」と言い切るのだ。
 そのように生存そのものを他者に全面的に依存しながらも“堂々と生きる”遠藤の生き方、在り方に支援しているはずの介助者たちが感化されていく。
 「バイトだと行きたくないなあと思うことがありますよね。しかし介助はそういう気持ちにはならない。自分が行かなければ、遠藤さんは死んじゃうんじゃないかと思うんです。遠藤さんの生活にダイレクトに影響してしまうから。介助をやっているというより、遠藤さんと過ごしている時間が大事ですね。だから時給いくらで何時から何時までという感覚はあまりにないです」
 「介護というより、遠藤さんが面白いな。僕にとってもとても助かっていますね。近所のおじさんの所に遊びに来ているという感覚です」
 「今日は楽しかった。気がついたら、昼飯を食う時間を忘れていました」
 「遠藤さんは“師匠”です。僕の福祉の思想は根本に遠藤さんが中心にあるんです」
 「遠藤さん、やさしいですよね。全部受け入れている感じが。障がいがあって生まれてきても、自分らしく生きようとするのが伝わるんで、いいなあと思います」
 「生きる執念はすごいなあと思います。すごさと言うか。苦しい状況の中で、覚悟というか。カッコ悪いところを見せ続けるカッコよさが凄いなあと思います」
 小学校4年から学校に行けなくなり、10年間も引き籠りだった介助者の青年はこう語っている。
 「最初はこわかったです。ただ『会話がしたい』という思いが強く出てきました。話せ伝わるとうれしい。そうやって、少しずつ自分に自信がついてきたのが大きいですね。『えんとこ』に来てからの感覚かなあ」
そしてこう言うのだ。
 「ここにいる人(介助者)はみんな人生がボロボロ出てくるんです。だからどうしてもここが必要な人がここに残るんです」
 「今まで感じなかった生きている実感があります」
 音楽をやりながら介助を続けている若者はこう言う。
 「いのちを生かし合う。でも遠藤さんの障害の程度が重くなると、そうも言っていられなくなると思います。それでも、『介助』というのはそこじゃない。何かといえば、やはり“いのちを生かし合う”的な接し方じゃないかなあ。遠藤さんは介助者に最初から心を開いているから。その関係があるから、いい関係があるんだと思います。構える必要がない。遠藤さんと共感しあうところから、“いのちを生かし合う”。“寄り添う”では、“寄り合う”ような関係ですね」
 「強者」または「健常者」が「弱者」を一方的に「助ける」のではなく、助けるべき対象のはずの「弱者」が逆に「強者」に“いのちを生かし合う”機会、“寄り合う”機会を提供している。
 映画『えんとこの歌』が私たちに伝えようとするメッセージはそこにあると私は思った。それは相模原障害者施設殺傷事件の犯人、植松の「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」と考えに、真っ向から立ち向かう“思想”だ。伊勢真一はそれを、大学時代の友人、遠藤滋の生き様を丹念に描くことで、植松の根っこにある「優生思想」につながるものを無意識に心の奥底に隠し持っている私たち「健常者」に突き付ける。
 「あなたは、35年間、寝たってきりで介助なしでは一時も生きられない遠藤よりも、優れた人間、生きる価値のある人間だと思ってはいませんか?」「あなたは、遠藤ほど他者と“いのちを生かし合う” “寄り合う”存在でありえていますか?」「あたはほんとうに遠藤ほどに懸命に“生きて”いますか?」と。
 最後に遠藤と介助者たちが合唱するテーマ曲「不屈の民」がいい。「生きよ!生きよ!そのままの君でいい。生きよ!生きよ!」と、観る私たちを鼓舞し、奮い立たせる。
 紛れもなく、この映画『えんとこの歌』は“生きること”に迷い、悩み、逡巡する私たちに向けた“いのちの賛歌”だ。

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