Webコラム

日々の雑感 390:
「朝日新聞」はなぜ記者を生殺しにするのか

2020年3月18日

「手抜き除染」のスクープ報道

 2018年10月、新聞記者が書いた一冊の著書に出会った。『地図から消される街』(青木美希著/講談社現代新書)である。その第2章「なぜ捨てるのか、除染の欺瞞」は圧巻だ。

 著者の青木美希記者は福島の現場である除染作業員と出会う。その作業員から除染作業中に汚染された葉や土が回収されることなく、班長からの指示で崖下の小川に投げ捨てていると聞き知った。いわゆる「手抜き除染」だ。しかも作業で使用した熊手や長靴は決められた洗い場で洗浄されることなく、川で洗い流しているというのだ。
 さらに他の除染作業員から、民家の屋根の除染も拭き取るのではなく、高圧洗浄で洗い流し、その汚染水は回収されることなく、排水溝から川へ垂れ流しされている現状を知らされる。青木記者は、その証言の裏を取るために、他の作業員たちの証言を集め、自ら現場を駆け回った。その取材の過程で、取材する作業員に車で連れ去られそうになり、誰にも聞かれないためにカラオケボックスで取材している最中に(取材相手の作業員から)襲われそうになる危険も冒した。

 それでも「放置しておけば、“手抜き除染”で汚染が広がる被害がさらに拡大する」「(作業員)本人たちが良心の呵責に苦しむような作業を、なぜ被曝というリスクをおかしながら、そして被曝の除染手当を搾取されながらも続けなければならないのか」という義憤に駆られる青木記者は、取材結果を記事にすべく本社のデスクに掛け合う。デスクは「環境省が否定してきた時に反論できるように、動画か写真で現場を押さえるように」と指示し、チームを編成した。
 福島の現場に戻った青木記者は、撮影できる現場探しに奔走した。やっと適切な場所を見つけ、チームを東京から呼び寄せ、チーム4人の張り込みが始まった。季節は12月、うっすらと雪が積もり朝晩の気温はマイナスになる。それでも作業が始まる早朝から作業が終わる夕方まで4人の記者は一日中かがんだまま、現場に張り付いた。足先や腹にカイロを貼って寒さをしのいだが、一人の記者の足は凍傷になっていた。
 そして3日目の朝、ついに作業員が落ち葉の塊を川に蹴り出す現場をカメラで捕らえた。青木は崖に登り、足元は雪で滑り落ちそうになりながらもその現場を撮影した。
 その後さらに青木は飯舘村に向かい、建物を洗浄した汚染水が回収されることなく、流される現場を動画で撮影する。

 右手にスマートフォンを持ち、録画しながら、水の流れを追う。茶色に濁った水が排水溝に入っていく。その水は排水溝からいくつもの筋になって側溝にちょろちょろと流れ込んでいる。歩いていくと、水は側溝から川に向かっていた。その先に、もともとは豊かな農産物を育てていた耕地があった(『地図から消される』より)。

 青木記者が会社に寝泊まりしながら書いたスクープ記事は、2013年1月4日、「朝日新聞」のトップを飾った。
 報道直後、「除染」をめぐる状況が大きく動いた。地元の首長たちからの怒りの声が沸き起こった。環境省副大臣は「事実なら、重大な問題なので、しっかり対応していかなければいけない」と記者団に答え、元請けのゼネコン各社に対し、現場責任者に事実関係を確認するように求めた。
 そしてこの「手抜き除染」スクープ報道は、2013年の新聞協会賞を受賞する。青木記者にとって、『北海道新聞』記者時代に北海道道警裏金問題の報道に次ぎ、2度目の受賞である。

「ジャーナリスト」でなく「社員」

 この青木記者が4月から取材記者から外され、広報部門の「記事審査室」に異動をさせられる。これほどの実績を持つエース記者が、なぜ突然、記事を書く機会のない部署へと移動させられるのか。
 『日刊ゲンダイ』は「会社は原発を批判する報道を煙たく思っている。『原発問題を取材しすぎると、こうなるぞ』という“見せしめ人事”じゃないかと疑われています」という「朝日新聞社員」のコメントを紹介しているが、私の知人の元朝日新聞記者は、「そういう政治的な策略は考えにくい」と言う。

 「会社が“余裕”を失っているからでしょう。この10年ほどに間で、朝日の購読者数は800万部から500万部ほどに落ち込んだと言われています。かつての同僚たちの話によれば、そういう状況の中で、会社内部で年に数十人単位で『記者はずし』が進行しているそうです。つまり記者たちが現場から外され他の記者職以外の部署に異動させられているんです。こんな状況に同期のある記者は、『新聞社がジャーナリストを削減するなんて自滅行為だ』と嘆いていました」

 私はある本で読んだエピソードを思い出した。
 嵐で沈没しかけている貨物船の船長が、沈没を免れるために船荷を海にどんどん放棄させた。翌日、海は静まり、船は難を逃れた。しかし残った船荷を観て、船長は青ざめる。自分たちが捨てた多くの船荷は船員たちが生き延びるために不可欠な食料や水だったのだ。

 もう一人の元朝日新聞記者の知人は、「会社は、記者を“ジャーナリスト”というより、会社の『社員』としか見ていないのではないかと思います。会社は“適材適所”というより、会社組織の都合によって“駒”のように記者を動かしているように見えるんです」

悲痛な叫び

 青木記者が3月12日、自らのフェイスブックに、こんな文章を公開した。

 私は教職の父のもと、札幌で6人きょうだいの4番目に産まれ、親が大工さんと手作りした家で育ちました。家の中に雪がはいりこんで部屋の中に雪が降るような家でした。傾いたり、雨が降ったり。小学校時代から週末は家の修理か家の畑を手伝っていました。小学校では給食費の滞納で先生に早く持って来るように言われ続けました。高校を出たら妹の学費を稼ぐために自衛隊に入るように親に言われましたが、何とか説得して大学に行けました。東京の有名大学も合格圏内でしたが、親に「受験の費用が出せない」と受けることすらできず、唯一受けることができたのは地元の国立大学のみ。地元の新聞社北海タイムスに就職し、家族の介護をしながら家にお金を入れ続けました。北海タイムスの基本給は12万8千円。食費を200円で過ごしました。しかしタイムスは1年半で自己破産を申請し倒産しました。

 貧しく辛かった自分の生い立ちをさらけ出し、青木記者はこう続ける。

 この国は生まれながらにして経済的に恵まれていない人たちには選択肢がない。どんな環境で育っても未来を選べる社会にしたいと思って、記事を書き続けてきました。

 ホームレス問題に取り組み(路上生活の方には北海道出身の人も多かった)、311が起きてからは原発事故問題を書き続けました。家を、仕事を、コミュニティを1度に失う。どんなに辛いか。勤めていた会社を失い、帰るところがなくなったときのことを思い起こしながら、一番辛いときは惨めで声をあげたくても声もあげられないほどだったことを思い出しながら取材しました。

 その文章に私は、「こんな辛い体験をしてきた私だからこそ、惨めで声をあげられない人たちのために、私が代わって書かなければならないのです。書かせてください!」という青木記者の悲鳴のような叫びを聞く思いがした。

 「朝日新聞」という会社にとって、記者は「一社員」に過ぎず、「駒」の一つに過ぎないのかもしれない。しかし記者の一人ひとりは、自分が伝えなくてはならないと信じることを、自らの人生と生命をかけて必死に伝えようとする、プロ意識と使命感、そして矜持と尊厳をもった「ジャーナリスト」という一人の人間なのである。
 そんな記者たちの思いと存在を大切にできない新聞社に未来があるとは私にはどうしても思えないのである。

「地図から消される街」講談社現代新書

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