Webコラム

日々の雑感 26
パレスチナ・2007年 春 12

2007年4月6日(金)
メイル・マーガリットの個人史

 3月26日の日記で紹介したメイル・マーガリットを私のドキュメンタリー映画「届かぬ声」の第4部「告白と自省─加害を語るイスラエル人たち─」の中で取り上げようと考えている。そのためにメイルの日常の活動、そして個人史をきちんと取材する必要がある。メイルは私のその計画を快く受け入れてくれた。
 仕事が休みの今日、私はその個人史をインタビューするため、彼の自宅を訪ねた。多くのホロコーストの犠牲者・生存者とその子孫は、パレスチナ人の犠牲や被害、占領をも「ユダヤ人の生き残り・セキュリティーのための必要悪」として目をつぶってしまいがちなのに、なぜホロコースト体験が“占領”と闘う原点となったのか、それを知る鍵は彼の生い立ちにあるのではないか──私は彼がどういう環境の中で生きてきたかを知りたかった。

 メイルは1953年にアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれている。父親はポーランド出身のホロコースト生存者の1人で、10代後半でアルゼンチンに渡り、以後、繊維工場の労働者となった。母親はブルガリアからアルゼンチンへ逃れてきたユダヤ人である。決して豊かな家庭ではなかった。13歳の成人式「バミツバ」でも、親戚や友人を招待したパーティーを開く余裕もなく、両親と叔父だけの質素なお祝いだった。
 午前中は公立学校、午後はユダヤ人学校に通った。いつしか右派リクード系の青年組織に所属する右翼少年となっていった。メイル少年にとって、イスラエルへの「アリヤ(帰還)」は自明のことだった。「祖国」イスラエルに身を捧げることこそがユダヤ人としての自分の使命と信じていた。
 イスラエルへ渡ったのは1972年、19歳のときだった。空港に着き、受け入れ団体から「イスラエルのどこへ行きたいか」と訊かれたとき、メイルは「イスラエルで一番遠く、一番生活が厳しい場所」と答えた。結局、そこはシナイ半島の砂漠にあるキブツだった。メイルにとって、最も困難な場所で、この国のために尽くすことこそが愛国心の表現だと信じていた。空港で渡された当面の小遣い50シェーケルもつき返した。「私はイスラエルに金を与えにきたのであって、金をもらうために来たのではない」と。
 アリヤから3ヵ月後、メイルはイスラエル軍に入隊した。彼の所属するナハル部隊に与えられた任務はガザ地区中部の砂漠地帯の新たな入植地、「ネツァリーン」を建設することだった。メイルは自分が“開拓者”の1人になったような誇りをもって、嬉々としてその任務を果した。その後、この入植地の存在によって多くのパレスチナ人が犠牲となる「ネツァリーン」の建設者の1人であった過去を“平和活動家”となった今、皮肉な運命と振り返る。
 右翼のメイルの“祖国・イスラエル”観に変化をもたらしたのは、入隊した翌年に起こった第4次中東戦争(ヨム・キープル戦争)だった。兵士としてシナイ半島で戦ったメイルは、エジプト軍の爆撃で負傷、病院に運ばれた。入院中、前夜まで同じ病室のベッドにいた兵士が翌朝には、突然姿を消した。夜中に死亡したと聞かされた。次々とベッドが空になっていく現実に、メイルの中に疑問が膨らんでいった。なぜこれほど若者たちが次々と死んでいかなければならないのか。イスラエルという国は、何か間違っているのではないか……。やがてメイルは、イスラエルがパレスチナ人の土地を奪い、占領を続けている現実に行き当たった。もちろんパレスチナ人の存在はアルゼンチン時代から知ってはいた。しかしイスラエルという国の中にパレスチナ人が暮らすことに疑問はなかった。イスラエルの中で仕事をし、イスラエル人を助けるのなら、「共存」できると思ったからだ。しかしそれは「共存」ではなく、パレスチナ人の権利と土地を奪う“占領”であることを理解し始めたのである。
 しかし、それでもすぐには、右翼組織や軍から離れて、“和平”陣営に飛び込むことはできなかった。独りでイスラエルへ移住してきた自分には、これまで所属していた右翼組織や軍以外に自分の居場所はなかったからだ。他の兵士たちが休日や祭日の休暇には実家に戻っていくのに、自分には帰る場所も家族はなかった。だから休暇も軍の基地で過ごした。軍や組織を離れることは、イスラエル社会での“孤立”を意味していた。自分の中で膨れ上がっていく疑問に抗しきれず、平和運動組織「ピース・ナウ」に参加し始めたのは、戦争中に疑問を抱いてから6、7年も経ってからだった。

 メイルは除隊後、エルサレムの市役所に職を得て、「社会福祉」の部署で25年間勤務してきたが、その後、所属する左派政党「メレッツ」から推されてエルサレム市議会議員となった。しかし議員としての報酬はなく、貧しい母体政党も電話代さえ賄いきれなかった。3人の子どもを抱えながら、メイルはこれまでの貯金を食いつぶしながら無報酬で議員生活を続けた。経済的な危機は夫婦の間に亀裂を生み始めた。数年前、メイルは妻と子どもの元も去った。現在、メイルは、アルゼンチンの独裁政権と武装闘争を続けてきた元ゲリラ闘士のユダヤ人女性と同棲している。イスラエル当局によるパレスチナ人の家屋破壊を調査し、監視するNGOスタッフとなったメイルの月収は十数万円、エルサレム市役所時代の半分にも満たない。薄給で離婚できない妻と子どもの養育費を払い続ける生活は決して楽ではない。しかし、自分の歩いてきた道を決して後悔はしないとメイルは言う。
 18歳になった長男は3ヵ月前に兵役についた。「金銭のためではなく信念のために活動する父親を尊敬している」と長男は私のインタビューの中で語った。彼は、占領に強く反対する父親の強い影響を受け、入隊時に上官に「占領地での兵役は望まない」と宣言した。現在、テルアビブ近郊で兵役につき、休日には父親の元で過ごす。父の新たな連れ合いの女性とも、何でも相談しあえる親しい関係だ。
 「ホロコースト生存者の子孫であるからこそ、“占領”が許せない」と言い切るメイルの背後には、そんな波乱に満ちた半生があったことを、知り合って7年後、このインタビューを通して私は初めて知った。

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