Webコラム

日々の雑感 31
パレスチナ・2007年 春 17

2007年4月12日(木)
ヨルダン渓谷のユダヤ人入植地の現状

 ジフトゥリック村の住民たちが働く「ユダヤ人入植地」とはどういうところなのか。なんとかその入植地を取材したいと思った。これまでガザ地区やヨルダン川西岸の入植地を取材するとき、私たちジャーナリストが通常取るやり方は、まずエルサレムに本部を置く入植地団体を訪ね、こちらの取材の趣旨と訪ねたい入植地を伝える、団体側はその要請に基づいてその入植地の責任者または広報担当官に電話連絡してジャーナリストの取材の趣旨を伝え、了解を得る。それまで1時間もかからないときもあれば、何日か待たされることもある。
 私はそのルートでの取材を試みようと思った。しかしヨルダン渓谷の入植地団体の連絡先を探すのにも手間取った。そこで、現地に40年近く住みイスラエルの事情も熟知し、ヘブライ語にも堪能な友人の井上文勝さんに事情を話し、相談した。すると彼は、入植地団体ルートでは時間もかかり要を得ないだろうからと、私が訪ねたいアルガマン入植地の電話番号を探し出し、直接、入植地の責任者と交渉してくれた。ヘブライ語での依頼で相手も心を許したのか、「明日でも、来てくれ」という返事だった。昨年夏、パレスチナ人のタクシーを借り切ってヨルダン渓谷を訪れたとき、車の外で撮影していたら、入植者の車が近くで止まり、私たちを撮影していた。同行したNGOスタッフによれば、入植者たちはこの地区で「不審者」を発見すると、すぐに警察に通報するという。そんな体験もあって、正直、「警戒心の強いヨルダン渓谷の入植地の取材は他の入植地以上に難しいだろうから、取材できなくても元々、万が一できれば儲けもの」とぐらいに思っていた私は、予想もしなかった急展開に驚き、歓喜した。

 早朝、井上さんと共に、彼の長男が運転する車で目的地へ向かった。エルサレムからまずジェリコ方向へ下る。しかしジェリコ市の方向へは左折せず、死海の手前で北上する国道90号線に乗る。5年前、イスラエル軍の包囲が解除された直後、ジェニン難民キャンプを取材するために何度も通ったルートだ。当時、ヨルダン川西岸内の道路を使ってジェニンに向かうことが難しく、この90号線で一旦イスラエル北部の街アフラへ向かい、そこからさらに南下してヨルダン川西岸とイスラエルとの境界、サーレム検問所を通過してジェニンに向かうのである。
 90号線は荒野の中を一直線に北へ向かうほぼ直線の道路で、車の量も少ないために車は猛スピードで走る。私たちの車も120キロほどのスピードで突っ走った。私が数日前まで滞在していたジフトゥリック村へ向かう道路を過ぎて間もなく、左手にハウス群が現われ、「アルガマン」という英語の標識が見えた。エルサレムを出て1時間ほどしかかからなかった。
 私がこの入植地を取材地に選んだのは、ジフトゥリック村に一番近く、ここで働く村の住民たちが多いからだ。私が滞在したアブ・イサ家の三男もここで働いている。
 アルガマン入植地の住民たちが暮らす居住区は、ハウス群が建ち並ぶ広大な農地から少し離れた丘の上にあった。つまりパレスチナ人たちが働く農園と入植者たちが暮らす居住区は分離されていて、労働者として雇われたパレスチナ人が居住区に踏み入ることはないし、できない。“セキュリティー”のためだろう。居住区の入り口にはイスラエル軍兵士が警備していた。井上さんがヘブライ語で私たちが代表とアポイントがあることを伝えた。兵士はそれを電話で確認したあと、車内を覗き込み、「パレスチナ人は乗っていないだろうな」と言った。井上さんも長男も、顔立ちから東洋人であることはすぐに識別できるはずだ。ただ後部座席に乗っている私はヒゲ面で東洋人らしくない怪しげな顔つきをしているらしく、兵士はパレスチナ人ではないかと疑ったようだ。私たちは大笑いした。
 敷地内に入ると舗装道路の沿道には、芝生が敷き詰められ木々の緑に囲まれた家々が建ち並んでいる。30年ほど前に半年滞在したキブツの景観によく似ている。走り抜けてきた荒野とはまったくの別世界だ。
 居住区の中心にある役所の建物で、代表(英語で「セクレタリー」と名乗った)のハイム・ミズラヒ氏が私たちに対応した。まず、カメラを回しながら、私はこの入植地の成り立ちや現状などを訊いた。

 アマルガンは1973年、イスラエル軍のナハル部隊(占領地のようにセキュリティー上で危険な地域でイスラエルの施設などの建設・整備などを任務とする部隊)によって入植地の建設がはじめられ、その後、民間の「モシャブ」(私有財産を認める農業共同体)になった。入植者は政府機関によって公募され、現在、40家族、約200人が暮らしている。当初は生活環境が厳しいために他の地域から通いながらの農業経営だったが、81、82年ごろに生活は安定し、定住が始まった。この入植地が「所有」する土地600ドナムは政府から「与えられた」もので、うち400ドナム(約40ヘクタール)は共有地、残りの 200ドナムを40家族が「私有地」として分担しあっている。
 共有地の大半はナツメヤシのプランテーションで、このアマルガンはナツメヤシの中でも最高の品質といわれる「マジュフール」という品種が生産できる北限の土地だという。今年から、この共有地に新たにぶどう栽培が始まった。3、4年後にはその実が収穫できる。
 入植者の大半は、テルアビブなどイスラエル各地から移住した市民だが、5年前には旧ソ連からの移住者2家族が加わった。入植希望者はまず面接試験を受け、共同生活に適応できるかどうかを見極められる。そこで選抜された家族はまず試験期間として1年間、「準メンバー」として入植地で暮し、その後入植地の住民の投票で最終的に「正式の入植者」として受け入れるかどうかが判断される。ただ、これまで25年間の歴史の中で、1年後に投票で拒否された家族は1家族だけだという。正式の入植者となった家族は「私有地」と農業のための水が配分され、農業の研修訓練を受ける。
 ミズラヒ氏自身は、かつてテルアビブ近郊で保安警察に勤務していた。同僚だった現在の奥さんと結婚を決意したとき、奥さんは、長時間労働でなかなかいっしょに時間を過ごす機会の少ない当時の職場とは違う仕事をしながら、もっと静かなところに暮らしたいと願った。1981年、ミズラヒ夫妻はラジオの政府広報で、ヨルダン渓谷に入植する家族を募集していることを知り応募した。応募した6000家族から50家族が選ばれる難関を幸運にもパスし、アマルガン入植地での生活を始めたのは、ミズラヒ氏が24歳の時だった。

 広大な農地で農業を経営していくには、外部からの労働力は不可欠だ。建設当初から、この入植地は近隣のパレスチナ人の村の住民たちを雇ってきた。アマルガン入植地に隣接するズベイダットやマジャールガザイなどパレスチナ人の村の住民が大半だが、私が滞在した数キロ先のジフトゥリック村からも雇っている。通常、200から300人だが、収穫期には1000人近いパレスチナ人を雇う。日当は技量と経験によって幅があり、70から150シェーケルだとミズラヒ氏は答えた。私がジフトゥリック村で取材したとき、この入植地で働く多くの青年たちは50から60シェーケルと答えた。たぶんその差額は、村から労働者を集めるパレスチナ人の「マネージャー」が「仕事の紹介料」分として差し引いて労働者に渡しているためかもしれない。この入植地では各部門、例えばナツメヤシ栽培部門、ぶどう栽培部門などで長年働き、「忠誠心」が高く、信用できるパレスチナ人を「マネージャー」として置き、パレスチナ人労働者の召集、仕事の管理を任せている。例えば、ジフトゥリック村で私が滞在した家の三男オデにアマルガン入植地での仕事を紹介したハーレッド(毎朝、オデを車で迎えにくる村の住民で、オデは彼を「私の先生」と紹介した)は、もう18年、この入植地で働き、ナツメヤシ部門の「マネージャー」としてミズラヒ氏の厚い信頼を得ている。彼の父親もかつてミズラヒ氏の元で働き、その息子のハーレッドは少年時代から父親と共にこの入植地に通っていた。ナツメヤシ畑を訪ねたとき、ミズラヒ氏はハーレッドを指して「私の仕事のパートナー」と呼んだ。
 この入植地で働くのはパレスチナ人だけではない。タイ人50人も貴重な労働力となっている。彼らには政府が定めた最低賃金以上が支払われ、現在、平均月給は3000シェーケル(約9万円)だという。ただタイ人にはパレスチナ人と違って、住居、米、それに衣類が入植地側から支給されるため、パレスチナ人より割高になる。しかし、できればもっとタイ人を増やしたいという。この入植地の主要な輸出作物の1つである細葱などの加工とパック積めなどは手先の器用さと忍耐強さが要求される。こういう仕事には、パレスチナ人よりタイ人の方がはるかに適しているという。ただタイ人の労働者の数は政府によって決められているために、願い通りには増やせない。
 アマルガン入植地の主要な農作物はナツメヤシ、細葱、ぶどう(「私有地」では以前から栽培され、輸出されていた)などで、イスラエルの輸出業者「アグレスコ」が(かつてガザ地区で生産されるイチゴや生花もこの「アグレスコ」に買い取られ、「イスラエル産」としてヨーロッパに輸出されていた)、主にイギリス、デンマーク、ドイツなどヨーロッパ諸国へ輸出している。かつて日本にもグレープフレーツの輸出を試みたが、うまくいかなかったという。新鮮さを必要とする細葱やぶどうなどは、収穫したその日のうちに空港まで運び、2、3日後にはヨーロッパの店頭に並ぶ。一方、ナツメヤシのように、保存が効く作物は、船で海外へ運ばれている。経費の削減のためだ。
 ミズラヒ氏にJICAプロジェクトについて訊いてみた。彼は詳しい内容は知らなかったが、「私たちとパレスチナ人の共通の利益につながるのなら、歓迎です」と言った。

 ミズラヒ氏は一通りの説明が終わると、ある入植者の細葱の加工工場へ私たちを案内した。建物の中に入ると、ひんやりとした。収穫した細葱の鮮度を保つため、部屋中が冷房されていた。中では、数人のタイ人、そして同じ数ほどのパレスチナ人が作業中だった。細葱の束を揃え、根元を包丁で切って長さを揃える。さらに不良な葱を選り抜き、計量器で重さを調整して、輪ゴムで根元をしばる。いくつか束が集まると、箱に入れ、さらにもっと温度を低くした冷蔵庫の中に保管する。たしかに手先の器用さと辛抱強さが要求される仕事だ。タイ人のうち2人はまだ20代と思われる女性だった。パレスチナ人も大半が若い女性である。こういう仕事はやはり女性が適しているのだろう。
 この工場の所有者である入植者が隣接する栽培ハウスへと私たちを案内した。中はむっとする暑さだった。ハウス内は長さが数十メートル、幅も2、30メートルはあろうか。その左半分には、まだ芽吹いたばかりの細葱の畝が何列にもわたって並んでいる。その畝は幅十数センチほどの枕状で、ビニールで覆われたその中は自然の土ではなく人工土だ。水をたっぷりと吸収し保存する。その畝の上には黒いビニール管がまっすぐ伸びている。20センチごとに開けられたその穴から毎日数回、肥料を含んだ水が染み出る。その量と回数によって、細葱の発育を自由に調整できるという。
 そして右半分にはすでに成長し、収穫を待つばかりの細葱の畑が、緑のじゅうたんを敷き詰めたように一面に広がっている。隣の芽吹いたばかりの細葱がそこまで成長するまでわずか25日間、しかも年中無休で生産できる。あと必要なのは、それを収穫し加工するための労働力だけだ。パレスチナ人やタイ人はこの入植地の農業経営にとって欠かせない存在なのである。
 100ドナム(約10ヘクタール)ほどの広大なナツメヤシのプランテーションでは、パレスチナ人の青年たちが、咲いた花の束に農薬を散布する作業をしていた。散布するといっても、地上数メートルの高さにある花だから、移動のためにクレーン車を使う。運転手とクレーンの台に乗って実際に散布する者とがペアになって仕事をする。このプランテーションも大量のパレスチナ人の労働力なしではとても管理・運営できる規模ではない。

 ヨルダン渓谷のパレスチナ人住民が入植地の運営にがっちりと組み込まれている現状を、私は、このアマルガン入植地で目の当たりにした。

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