Webコラム

日々の雑感 32
パレスチナ・2007年 春 18

2007年4月13日(金)
自爆した娘を語る父親

 今回のパレスチナ再訪の大きな目的の1つは、帰国後、編集にかかるパレスチナ・ドキュメンタリー映画「届かぬ声」の第3部「自爆と侵攻 ─増幅する不信と憎しみ─」の追加取材だった。その項目の1つが、自爆したパレスチナ人の遺族の取材である。私は、2002年の春、エルサレムで自爆したディヘイシア難民キャンプ出身の17歳の女性の遺族を取材したいと思った。昨秋、アメリカ西海岸、バークレイ市を訪ねたとき、18歳までディヘイシア難民キャンプで育ち、現在、奨学金を得てサンフランシスコ大学で学んでいる青年から、その娘について聞かされ、強い関心を抱いたからだ。
 パレスチナ人を支援する人たちの中には、「自爆テロ」という表現を嫌い、「自爆攻撃」と表現する人が多い。しかし私は、例えばイスラエル内のバスや商店街で一般市民を標的にした攻撃は“テロ”と表現する。「“テロ”とは、政治的な目的で、一般民衆を武力で攻撃し、死傷させる行為」と私は定義づけている。イスラエル人がやろうと、パレスチナ人やろうと、“テロ”は“テロ”なのだ。バスや商店街でのイスラエルの一般市民を狙う攻撃は紛れもなく“テロ”である。「『テロ』だ」、「いや、占領に対する『抵抗運動』だ」といった議論は、私はまったく不毛だと考えている。そういう議論をするよりも、「パレスチナ人は、自らの将来と生命を断ってまで、なぜ『自爆テロ』に走ってしまうのか」を追求し、その行為の原因と根源を伝えることにこそ時間と精力を費やすべきだと考えるのである。
 一方、「戦争」「報復」という名で国家が行う一般民衆の殺傷を“国家テロ”としてきちんと定義づけ、それを広く世界に知らしめていくことが必要だと思う。それがもたらす被害も影響力も、個人や組織の「テロ」の比ではないのだから。

 “自爆攻撃”はパレスチナ社会でも微妙な問題で、遺族がすんなりと外国人のジャーナリストの取材に応じてくれることは期待できない。相手が信頼できる仲介者が必要だ。幸い、私はこのディヘイシア難民キャンプには20年前にパレスチナ取材を開始した頃からの知人がいた。当時、ベツレヘム大学の学生委員長で、何度も「行政拘留」(逮捕状もなく、6ヵ月以内拘留できる占領統治手段の1つ)で投獄されてきた“抵抗運動の闘士”だった。私は当時、難民キャンプ内で軟禁状態にあった彼の元へ何度も通い、彼とその家族を取材した。占領への抵抗運動の激しかったディヘイシア難民キャンプはしばしばイスラエル軍によって外出禁止令下に置かれ、私自身、何度か彼の家族と共に家の中に閉じ込められたことがあった。私の処女作『占領と民衆 ─パレスチナ─』(1988年出版/晩聲社)は彼とその家族の物語から始まる。
 その古い知人は現在、ノルウェー系の会社に就職し、パレスチナとアラブ諸国の現地調査員として働いていた。外国人と英語で会話する機会が多いのだろう、20年前よりはるかに堪能な英語を話すようになり、どこか欧米人風の態度や話し方が身に着いていた。“占領と闘う情熱的で素朴なパレスチナ人青年”という以前の彼のイメージとのギャップにちょっと戸惑ってしまった。平均的なパレスチナ人より経済的に恵まれた環境なのだろう、彼は現在、難民キャンプから数キロ離れた町に新たな家を建てて暮している。
 およそ10年ぶりに再会したその“元学生闘士”に事情を話し、仲介を依頼した。彼は承知し、私たちはさっそくキャンプ内にある遺族の家を訪ねた。通常、「自爆テロ」を行ったパレスチナ人の家族の家は、「懲罰」としてイスラエル当局によって破壊される。しかしアヤット・アルアハラス(享年17歳)の実家は破壊されなかった。彼女の家族の家は5軒ほどが連なる“長屋”のような建物だったため、彼女の家だけを破壊するわけにはいかなかったからである。
 “元学生闘士”の知人は、ディヘイシアではちょっと名を知られた“有名人”である。しかも、幸い、彼の父親がアヤットの父親の知り合いだった。2階の窓から顔を出した父親に知人が事情を説明すると、私たちは家の中へ通された。5年前の事件のことについて父親はあまり語りたくないと言った。最愛の娘を失ったあの当時の衝撃を思い出してしまうし、自分たちの話が外国で歪曲して伝えられた苦い経験もあるからだ。あるアメリカ人のジャーナリストがアヤットについて訊きたいと取材にやってきた。どうしてもという要望に抗しきれず取材に応じたが、後で、そのジャーナリストが書いた記事は自分たちが話した趣旨とは違い、歪曲されたひどい内容だったことを聞かされ、両親は失望し怒った。だから、もうジャーナリストの取材には応じたくないというのだ。
 “元学生闘士”の知人は、「私とは20年も前からの知り合いで、このキャンプで外出禁止令で閉じ込められながら取材していたこと。長年ガザにも通い続け、もう20年もパレスチナのことを取材し続けていて自分たちの状況をよく理解しているから、アヤットのことをきちんと伝えてくれるはずだ」と懸命に父親を説得した。父親はやっと承諾し、次週の金曜日なら取材に応じられると私に告げた。
 その約束の日の今日、通訳を依頼したあるNGOスタッフの青年と共に再び、アヤットの実家を訪ねた。通訳の青年は以前から父親とは知り合いだったから、私たちはすんなりと受け入れられた。
 アヤットは成績優秀な高校生だった。すでに婚約者がいて、占領下とはいえ、それなりに“将来の幸せ”も期待できる環境にいたはずだ。そんな彼女がなぜ、敢えて自爆という道を選んだのか。私はそれを父親に訊きたかった。しかし父親は、占領下で生きるパレスチナ人の怒りと絶望感など一般論は語ったが、アヤット自身の具体的な動機については語らなかった。いや語れなかったのだと思う。父親はその直前まで、娘から“自爆攻撃”を予感させる言動はまったくなかったと言った。事件を知ったのも、事件を知らせるテレビニュースによってだった。衝撃で倒れた母親や兄弟たちは病院へ運ばれた。
 「事件の直前、娘さんはそれとなく“別れ”を告げませんでしたか」と私は畳み掛けた。しかし、「まったくなかった。いつも通りだった」と父親は答えた。まだ17歳の娘が自分の死を直前にして、最愛の両親を前に無感動でいられるだろうか。通訳が私に説明した。通常、本人に自爆の決行の日時と場所が知らされるのは数時間前で、それまでは本人も自分の死が間近であることを認知できないはずだというのだ。
 事件を知ったとき父親としてどういう気持ちだったのか──私は核心に触れる問いを父親に投げかけた。これまでと同じように冷静な声のトーンで語り始めたが、途中で突然、言葉が途切れた。目に涙が潤んでいた。ごまかすように父親は箱からたばこを取り出し、火をつけた。深く吸った煙を一気に吐き出したまま、しばらくじっと動かなかった。沈黙が続いた。こみ上げてくる感情を必死に押さえ込もうとしているように見えた。その父親の姿を目の前にし、私は、彼の心中にこみ上げてくる思いを想った。私は思わず涙がこみ上げてきた。側にいる通訳も目頭を押さえていた。
 「大切な娘を失って悲しまない親がいるだろうか」。父親がつぶやくように語ったアラビア語を通訳は英語で私にそう伝えた。私はしばし間を置いて訊いた。「でも、一方で、“自爆”という行為で占領と闘おうとしたと娘さんに“誇り”のようなものを抱きますか」。「もちろんです。父親として娘の死は耐え難いほど悲しいことだけど、パレスチナ人の1人として占領と闘うために犠牲となった娘を“誇り”に思います。その2つの感情が一緒くたになっているんです」

 しかし娘の「自爆テロ」による家族へのイスラエル側の報復も厳しかった。娘の遺体はついに戻ることはなかった。インティファーダ前まではイスラエルでの建設業で現場監督をしていた父親は、2度とイスラエルに足を踏み入れることはできなくなった。父親は仕事を失った。息子たちも同様だ。
 母親にもインタビューさせてもらえないかと頼んだが、「金曜日の食事の準備で忙しいから」と断られた。おそらく妻には娘を失った悲しみをぶり返させたくないという思いやりからだろう。高校で使っていた教科書や衣類など遺品を撮影させてもらえないかという私の要望も断られた。「もう家の奥にしまい込んでしまった。見ると娘のことを思い出して辛いから」と父親は言った。
 私たちが招き入れられた質素で古い居間の正面に、カフィーヤを敷き詰めた額の中にアヤットの大きな写真が飾られている。さらに部屋の片隅には模型の帆船が置かれ、その帆のいたるところに、アヤットの小さな写真が貼られていた。あたりを見渡すと、もう片隅の棚にも、小型の額に入ったアヤットの写真が置かれていた。
 「娘のことを思い出すのは辛い。しかし私たちは決して娘のことは忘れない。いつまでも家族の心の中に生き続ける」。そういう家族の思いを、居間のいたるところから微笑んでいる美しいアヤットの笑顔の写真群が語っているように思えた。

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