Webコラム

日々の雑感 33
パレスチナ・2007年 春 19

2007年4月15日(日)
“エルサレムのユダヤ化”を象徴するヌーマン村

 今回の取材でどうしても再訪し、半年後のその変化を見ておかなければならない村があった。ベツレヘムから北東へ1キロ、人口200人ほどのヌーマン村である。2004年の12月に初めて訪ね、8ヵ月後の2005年夏、そして1年後の2006年夏と、定点観測を続けてきた。この村の直面している現実が“エルサレムのユダヤ化”をどこよりも象徴的に物語っているからだ。

 ヌーマン村は1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍に占領された後、拡張された「エルサレム地区」の内部に組み入れられた。しかしその住民にはエルサレムの身分証明書(ID)は与えられず、ヨルダン川西岸のIDしか所有していない。そして私が初めてこの村を訪ねたころ、すでにヌーマン村とベツレヘム地区の他の町や村とを隔てる分離フェンスが建設中だった。これが完成すると、村人はエルサレムIDがないためにエルサレムへも行けず、一方、分離フェンスのためにヨルダン川西岸の町や村にも行けないために完全に「ゲットー化」されてしまう。
 一方、村が「エルサレム地区」内部であることを理由に、市当局はこの地区を家屋の建設などを制限する「グリーン地区」に指定、家族の増加のために村人が新設した家を「無許可建築物」として、多額の罰金を課し、それを拒否すればその家は破壊される。その一方、「エルサレム地区」にも関わらず、ゴミの収集や電話など市当局による公共サービスはまったく受けられない。

 11年前に村の青年と結婚するため、生まれ故郷のヨルダンからヌーマン村に移ってきたシハーム・マフムード(29)には身分を証明するものはヨルダンのパスポートしかない。結婚直後に夫や他の村人と同じようにヨルダン川西岸住民としてIDの発行をイスラエル側に申請したが、インティファーダの影響もあり、11年経った今もIDがない。そのためイスラエル軍の検問所の通過は拘束される危険があるために自由に移動ができなかった。ときどき村周辺にやってくる国境警備兵の検問を恐れ、暗くなる前に帰宅しなければならなかった。
 シハームにとってさらに大きな困難は、毎月支払わされる「不許可建築物」の罰金だ。ベツレヘム地区の学校教師である夫ニダール(33)は、結婚のため家の新築を決意し、エルサレム市当局に建築許可を申請したが、拒絶された。他に手段のないニダールは新居の建設を強行した。これに対し市当局は5万シェーケル(約125万円)の罰金を課した。ニダール一家はそれを毎月500シェーケル(約1万3千円)ずつ支払っていかなければならなかった。支払日を1日でも遅れると罰金は2倍の1000シェーケルになってしまう。夫の月給が5万円にも満たず、しかも夫が教師を務めながら大学院の通信教育を受けている4人家族には重過ぎる負担だ。罰金の支払いはエルサレムでないとできない。
 しかしエルサレムのIDのないニダールは出向くこともできない。だからエルサレムの学校へ通う甥に毎月支払いを委ねなければならない。私が最初に取材した2004年12月には、15万円ほど支払い終えたが、全額を払い終えるのに2011年までかかってしまうとニダールは私に語っていた。建設中の分離フェンスが完成すると、ニダールはベツレヘム地区の職場まで通うことが難しくなり、教師の職を失ってしまいかねない。当時、シハームは幼子をあやしながら言った。「私も家族もますます生活環境が厳しくなっていきます。こんなところでは2人の子供を育てたくない。一家そろってヨルダンへ移住することも考えています。しかし夫は生まれ育ったこの土地から絶対に離れないと言い張ります。私と子供たちだけ夫と離れてヨルダンに移るかもしれません。ここには未来はないのですから」

 ヌーマン村の村委員会の代表ジャマール・ダラウイ(40)は訴えた。「もしこの村がエルサレム地区内だというのなら、エルサレム市民と同様の公共サービスを提供してほしい。もしそうでなければヨルダン川西岸の一部のままにしておいてくれ。私はエルサレムIDが欲しいから言っているのでないのです。ヘブライ語で書かれた占領者のIDを持つことなんて私たちには少しも名誉なことではありません。我われパレスチナ人はエルサレムを自分たちの首都だと思っていますから」
 ある時、「イスラエル当局のコーディネーター」と名乗るイスラエル人が国境警備兵を伴って村へやってきて、「補償金をもらってヨルダン川西岸へ移住しなさい」と村人を説得しようとした。村人がこれを拒否すると「我われはこの村を分離フェンスで窒息死させる。村への水道も電気も切断し、子供たちも学校へ行けなくなる。そしてお前たちは水を絶たれた木のように枯れ死んでしまうんだ」と恐喝した。後にイスラエル人権擁護団体の調べで、その男は、近くのハルホマ入植地拡張のために土地を収得しようとする土地ブローカーであることが判明した。
 「イスラエルは分離フェンスで村人の生活を困難にして村から住民を追い出すことで、ヌーマン村を“住民のいない土地”にし、そこにさらにユダヤ人入植地を拡張しようとしているのです」。イスラエル当局の狙いを、あるパレスチナ人の人権活動家はそう説明した。“エルサレムのユダヤ化”の象徴的な一例だというのだ。

 昨年夏、この村を再訪したとき、ニダールの家は瓦礫の山と化していた。去年1月、イスラエル当局によって突然、破壊されたのだ。当日、裸で寒い外に放り出された生後3ヵ月の娘は肺炎を患い、その後半年近く入院生活を送ることになった。ニダールは家を破壊される3日前に翌月の罰金を支払い終えたばかりだった。住処を失った一家は、村を離れ、近くの町で借家住まいをしている。一方で、ニダールは家を破壊された後も、罰金を支払い続けている。「家の破壊と罰金とは別問題だ」というのがイスラエル当局の説明である。

 昨年夏には、すでにヨルダン川西岸側からの村への入り口に検問所が設けられ、村人の出入りが厳しく制限されていた。村でテレビや冷蔵庫が壊れても修理工を呼ぶこともできない。家庭用のプロパンガスの配達もしてもらえない。病人が出ても医者を呼ぶこともできない。村人以外のパレスチナ人は村に立ち入ることができないからだ。この村で生まれ育ち外の村へ嫁いでいった女性たちさえ、里帰りができないというのだ。
 救急車も消防車も立ち入れない。かつて山火事が起こって、パレスチナ側の消防車の出動を電話で要請したが、検問所で止められて入れず、結局、火が何十本ものオリーブの木を焼き尽くすのを村人たちは呆然と見守るしかなかった。
 子どもたちの通学も大きな問題を抱えることになった。検問所の兵士たちが、生徒たちのかばんから教科書を全部地面に出させ嫌がらせをする。中には「踊れ。そうしたら通してやる」と言い放つ兵士もいた。通学が子どもたちのトラウマになっているとある村人は私に訴えた。
 その検問所を昨年夏、ヨルダン川西岸側から訪ねた。通訳として同行したNGOスタッフが、警備中のアラビア語を話すドルーズ(イスラエル内のアラブ人の一部)兵と世間話をしている間に、検問所周辺、そこを通過する村人たちの検問の様子などを30分ほどかけて撮影した。当時は、監視塔やイスラエル兵の宿舎などは完成していたが、入り口には門もなかった。

 半年後の今日、前回と同じNGOスタッフを伴って検問所を再訪した。前回、建設中だった検問所前のユダヤ人入植者の専用道路はすでに完成し、検問所にも金網の門と住民が1人ずつしか通過できない回転扉が設置されていた。住民は、その門を入り、回転扉を通り、建物の窓口で身分証明書を提示しなければならない。
 私は前回と同様、イスラエル政府発行のプレスカードを提示し、検問所を撮影させてほしいと、国境警備兵の責任者に申し出た。ドルーズのその将校は、私のプレスカードの裏表をじっと見つめた後、許可を出した。しかし、同行したパレスチナ人の通訳は、パレスチナ側が発行したプレスカードを提示しても相手にされず、立ち入りを拒否された。
 私は半年前との変化をカメラを収めようと、いろいろアングルを変えて撮影し始めた。とくに大きな変化は、門と回転扉だった。何度も、それにカメラを向ける私を不審に思ったのか、将校が「もう十分だろう。止めろ」とアラビア語で私を制止した。まだ10分ほどしか時間が経っていなかった。「この回転扉を住民が通る現場を撮影させてほしい」と英語で訴えたが、「俺は英語はわかならい」と言い、「もう終わりだ。帰れ!」と取り付く島もない。前回の兵士と違い、眼光からも冷徹さがうかがい知れるこの将校に、これ以上訴えても無駄だと判断し、私は検問所を離れた。ただ向かい側の丘の上から、数百メートル先の検問所の俯瞰をズームしながら撮影した。

 その足で私たちはベツレヘムに戻り、職場のオフィスにいるヌーマン村の村委員会の代表ジャマール・ダラウイに再会した。彼にこの半年の村の変化を訊いた。
 彼によれば、検問所の住民への嫌がらせはいっそう深刻化しているようだ。夜、車で村に帰ろうとすると、警備の兵士が、運転する村人に車の部品をはずさせたり、またシャツを胸まで上げさせたり、ズボンを下ろさせたりする。それに抵抗すると、銃を突きつけ、「従わなければ撃つぞ」と脅すというのだ。検問所のために村人の生活もいっそう困難になってきた。配水管の破損や電気の故障を修理しようとしても、修理工が村に入ってこれない。料理用のプロパンガスを配達するためにやってくる業者のトラックは、検問所前で5、60ものボンベを全て地面に降ろさせ、徹底的に調べた後に、追い返されることがあったという。幼い幼児たちが回転扉を怖がりなかなか通れない。また11歳の双子の姉妹が村に入ろうとしたら、1人は許可され、もう1人は通行を認められなかった。双子なのに、「1人はこの村の出身ではない」と兵士は言い張ったという。結局、通れなかった子は数時間、検問所で泣きながら待たされ、迎えにきた父親の説得でやっと通れたというのである。

 信じられないようなことがこの村で日常的に起こっている。しかし“ヌーマン村”の存在を知るジャーナリストは少ない。ましてや、理不尽な生活の苦難と腸(はらわた)の煮え返る屈辱を住民たちが日常的に受けている実態を知らせる報道はほとんどない。そして外の遠い世界で暮らす私たちは、「今のパレスチナは、事件もない『平穏な日々』が続いている」と思い込む。

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