Webコラム

日々の雑感 37
パレスチナ・2007年 春 23

2007年4月22日(土)
最初の女性自爆犯、ワファ・イドゥルス

 2002年1月だった。当時まだエルサレム市議会議員だったメイル・マーガリットのオフィスで、私は彼と雑談をしていた。ちょうど昼時だったように記憶している。突然、オフィスの電話が鳴った。受話器を取ったメイルの表情が一変した。「たった今、すぐ近くのヤファ通りで、自爆テロが起こったらしい」とメイルは私に告げた。私はビデオカメラを手に持ち、外へ飛び出した。通りに出ると、警官が現場へ向かって走っている。私はその警官の後を追った。西エルサレムの中心街ベンユダ通りの近くで、人だかりができていた。その先には、すでに警察によって立ち入り禁止のテープが貼られている。私はプレスカードを見せて中に入ろうとしたが、警官に制止された。爆破現場まで2、30メートルあったろうか。路上にガラスの破片が散乱していた。その片隅にピンク色の“物体”が見えた。私は望遠の倍率を高めるためにカメラにつけているワイドレンズをはずし、その“物体”にズームインした。それは身体の一部だった。肩から下の腕で、その切断面がピンク色だった。私はぎょっとしたが、カメラを回し続けた。制止テープの前に群がり、現場を注視する群衆。その顔は恐怖心でこわばっている。
 やがてジャーナリストたちが現場に立ち入ることが許された。足元を白いビニールで包み、白いゴム手袋をした聖職者たちが、金属のヘラで、路面や駐車していた車にこびりついた肉片をかすり取り、透明のビニール袋に入れる作業を続けていた。20メートルほど離れた建物の屋上では、他の聖職者が建物の壁にこびりついた肉片を棒で剥ぎ取っている。数十メートル離れた靴屋のショウウインドウのガラスも吹き飛び、飾られていた中の靴も散乱している。爆発の凄まじさを物語っていた。
 その自爆犯が女性であることが報じられたのは、その日の夜だった。初めての女性による自爆である。私が撮影したあの肩から下の腕は女性のそれだったのだ。
 その女性はラマラ近郊のアマリ難民キャンプ出身のワファ・イドゥルス(27歳)であることが判明したのは数日後のことだったろうか。パレスチナ赤三日月社で医療活動のボランティアをしていた女性で、救急車でイスラエルの検問所を通過して西エルサレムにたどり着いたこともやがて判明した。
 ワファの実家は、事件からおよそ2年後、イスラエルがラマラを再占領した後の2004年に破壊された。遺族たちへの“報復”である。まだ70歳を超えたばかりだった母親は昨年すでに亡くなっていた。私に、ワファについて語ってくれたのは、長兄のハリール(38歳)である。ワファは2人の兄と1人の弟がいる4人きょうだいのただ1人の娘だった。
 ハリール自身もファタハ(アラファトが創設したPLO主流派組織)の活動家として占領への抵抗運動に参加し、1985年から8年間投獄された。そんな兄の影響もあり、1988年に始まった第1次インティファーダでは、まだ十代半ばだったワファも女性組織に加わり、外出禁止令下の街や難民キャンプに食料などを届ける活動を続けていた。その後、従兄弟と結婚、妊娠したが流産した。そんなことも夫婦の不和の原因となり、ワファは離婚して実家に戻った。
 緊急医療活動の訓練コースを卒業したワファは、第2次インティファーダが激しさを増すなか、赤三日月社で医療ボランティアとして活動し始めた。イスラエル軍の攻撃によって、脳が飛びした青年、肢体を失った男性などを連日のように目撃してきた。自分の腕の中で息を引き取っていく青年もいた。そんな状況を目の当たりにして、ワファの中にイスラエルへの激しい怒りと憎しみが増幅していったことは容易に想像がつく。
 事件の2日前、ワファは一家の大黒柱だった長兄ハリールのところへやってきて、お金を無心した。いつものことだったので、別に気にもかけなかった。いつもと特別に変わった様子もなかったとハリールはいう。それが妹ワファを見た最後だった。
 事件当日の夕方、いつも帰る時間が過ぎても娘が帰ってこないのに、母親は苛立った。夜になっても帰ってこない。3日が過ぎてもまったく姿を見せない。若い女性が独り、何日も家に帰らないことが近所に知れ渡ると、悪い噂がたち、家族にとっても不名誉となる。家族はジェリコ、ナブルス、ヘブロンなどの親戚に次々と電話を入れ、ワファが立ち寄っていないか尋ねまわった。しかしどこにもいない。
 その頃、イスラエル当局は、自爆犯の身元を必死に捜査していた。ヨルダン川西岸で3人、行方不明の女性の名が浮かび上がった。1人は、ナブルスのナジャハ大学生、2人目は、ベツレヘムの女性、そして3人目がワファだった。やがて前者の2人の行方が判明した。最後に残ったのがワファだった。ファタハ組織に人脈を持つ兄ハリールは、パレスチナ公安警察に問い合わせた。そこでやっと、自爆攻撃したのはワファのようだという情報をつかんだ。妹を送ったのはファタハ系の「アルアクサ殉教旅団」であることも明らかになった。
 「あれほど社交的で明るかった妹がそんな行動をとったことに、まず驚き、そして唯一の妹を失った悲しみがどっと押し寄せてきました」と、ハリールは、ことの事実を知ったときの心境をそうふり返った。「それはこの難民キャンプの住民も同じでした。ボランティア活動などで住民のために活動する社交的なワファを失った“喪失感”が、家族のような人間関係で結ばれた住民たちの共通の感情でした」
 「妹の行為を家族として、また1人のパレスチナ人としてどう捉えているのか」──私はハリールに問うた。「それがイスラエル人であろうと、人が殺されたのですから、悲しい出来事です」と彼は言った。「しかし、一方で、いつもイスラエルによってパレスチナ人たちは土地を奪われ、封鎖され、殺されて傷つけられていく。“自爆攻撃”は、そのようなイスラエルのやっていることに対する“反動”なのです。戦闘機や戦車など近代的な兵器もないパレスチナ人に残された闘いの1手段なのです」

 ハリールが40分ほどアラビア語で私に語った言葉は、もっと詳細で、心の襞に触れる内容を多く語っているにちがいない。しかし通訳が要約する言葉を、撮影の合間に書き留めたメモを手がかりに表現しようとすると、以上のような単純な内容になってしまう。読者にハリールの言葉を正確にまた詳細に伝えるには、その録画テープの翻訳が仕上がるのを待つしかない。
 インタビューが終わると、長兄ハリールの家に残されたワファの写真を撮影した。その中に、この1月、自爆5周年の記念に作られたポスターがあった。緊急医療活動の訓練コースを卒業したときに身につけた角帽とガウン姿のワファ。その写真の下には、アラファトの写真、そして昨年イラクで処刑されたフセイン元大統領の写真が組み入れられている。
 アマリ難民キャンプを歩いていると、いろいろな場所に、このポスターがまだ貼られたままになっている。1月に貼られ、数ヵ月間に雨風でずいぶん色あせ、痛んではいたが、ワファの写真はまだはっきり識別できる。
 他の世界ではもちろん、パレスチナの中でももう話題に上ることもない「女性最初の自爆犯、ワファ・イドゥルス」は、この故郷のアマリ難民キャンプでは、まだ「英雄」として住民の心の中に生き続けている──5年経っても、まだ街角に貼られているワファのポスターを撮影しながら、私はそう思った。

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