Webコラム

日々の雑感 53
パレスチナ・2007年 秋 7

2007年10月27日(土)
“パレスチナ”を伝えるイスラエル人記者

 イスラエルの高級紙として評価の高い『ハアレツ』紙の英字紙は休日の土曜日に休刊する分、金曜日は通常の2倍を超える分量の新聞を出す。その中に「ハアレツ・マガジン」というタイトルの小雑誌が入っている。30ページほどの分量で、特集記事には数ページが割かれている。全部を丁寧に読もうとすれば、私の英語力では相当な日数を要するだろう。
 この小雑誌の目立つ前半に1ページ半を割いた連載記事が載る。タイトルは『薄明かりの地帯』。ギデオン・レビ記者による、半ページを占める素晴らしい写真付きの“パレスチナ”に関するルポである。レビ記者は、アミラ・ハス記者と並んでパレスチナ側から等身大の住民の実態について詳細な記事を書くベテラン記者としてイスラエル内外にその名を知られた著名なジャーナリストである。
 まず驚くのは、イスラエルを代表する新聞にこれほどの紙面を使って、毎週パレスチナ人の実情を伝える記事が掲載されることである。記事の内容は、明らかにイスラエル当局の政策に批判的な、パレスチナ人の視点からの記事である。おそらくイスラエル人の一般読者からは「なぜこんな『非国民』『裏切り者』の記事を載せるのだ」という非難が殺到するに違いない。アミラ・ハスがガザやヨルダン川西岸のラマラに居を構え、現地から、パレスチナ人の目線から書き送る記事に猛烈な反発が起きて購読者数が減少し、今やコラム以外に彼女の記事を掲載することが難しくなったとさえいわれることから推測しても、それは容易に想像がつく。しかし、今年春にも掲載されていたこの『薄明かりの地帯』は、半年後の今も続いている。「自由と民主主義の国」イスラエルの“懐の深さ”とでもいえようか。
 10月19日版に掲載されたのは「“行政拘留”の孤児たち」と題された記事だった。まず半ページを占める写真が目に飛び込んでくる。両親が投獄されて“孤児”となり、貧しい祖母の家に預けられた3歳から15歳までの6人の子どもたちが、家具もない閑散とした部屋の片隅で一かたまりになり、カメラに向かって、ある子は睨むような鋭い視線で、ある子は消沈したように目線を床に落とし、またある子は憔悴したような虚ろな視線をこちら側に向けている写真である。
 危険人物と目され逮捕状もなく拘束される「行政拘留」で父親サミ(35歳)が、真夜中にイスラエル軍に連行されたのは16ヵ月前の去年6月だった。イスラム運動組織「イスラム聖戦」の活動家でイスラエルのセキュリティーを脅かす可能性があるというのが当局側の説明だった。それから3ヵ月後、イスラム系の慈善組織で働いていた母親のノラも同じく「行政拘留」で拘束された。両親がいなくなった6人の子はヘブロンに住む祖母(59歳)に引き取られた。しかしその祖母は極貧の生活で、引き取られた6人の子どもは満足に食事もできない生活を強いられている。両親が突然いなくなった衝撃のために、3歳の末娘は、夜、自分の頭を床に打ちつけたり、自分の髪をぐいぐい引っ張る自傷行為を繰り返すようになった。突然、感情を爆発させ暴れる子もいる。学校へ通っていた3人の子も学校へ行かなくなった。12歳の女の子は以前は素晴らしい成績だったが、両親がいなくなった後、成績は急激に落ち、落第の可能性が濃くなった。
 毎月、両親に会うために子どもたちは刑務所を訪ねるが、父親と母親は遠く離れた別々の刑務所にいるため、子どもたちは分かれて面会にいく。そのため子どもの中には父親にもう3ヵ月も会えない子、1ヵ月半も母親の顔を見ていない子もいる。その親子がガラス越しに会うその貴重な30分の面会の時をレビ記者はこう記述している。
 「実際、親子は言葉を交わす時間より泣いている時間が長い。子どもたちは窓の片側で泣き、母親や父親はその窓の反対側で泣き続ける」
 人権団体などがこの非人道的な当局の処置に抗議した結果、当局が提案した「解決案」は、母親のノラをヨルダンに追放処分にして子どもたちと再会させるという手段だった。

 レビ記者のこの記事に、大仰な表現や書き手の主観を吐露する文章は1行も出てこない。ただ取材した事実を淡々と書き記しているのみである。しかし、そこに書き手の主観がないということでは決してない。この“孤児たち”を取材対象に選んだこと自体が、記者の主観であり、主張なのだ。そして、見聞した事実を詳細に描き、読者をその現場に連れていき“孤児たち”と直接向かい会わせる。乾いた文章で淡々と記述されているが、その各行間からは“取材する1人の人間”の激しい怒りがにじみ出ている。「これを伝えずにおくものか」という気迫である。それはアミラ・ハスが占領地から書き送るルポにも共通する、読む者の心を揺さぶる迫力である。
 「私のジャーナリスト活動の“ガソリン”(源)は“怒り”です」とアミラ・ハスが私に語ったことがある。それは“ジャーナリストとしての怒り”というより“1人の人間としての怒り”なのだと思う。「こんなことが許されていいのか」「これを伝えずにおくものか」という激しい感情。それに衝き動かされるようにして、レビ記者もアミラも、たとえ国内の右派から「裏切り者」「非国民」と罵声を浴びせられようとも、また新聞社から“干される”危険があろうともパレスチナ人の惨状を書き続けるのだろう。
 一方、アミラは「私はパレスチナ人のために報道しているのではない」と言い切った。「そうではなく、私はイスラエルの国と国民のために伝えているんです。この“占領”がユダヤ人の倫理とイスラエル社会を腐食しているという危機感を持つからです」というのである。

 1週間後の『薄明かりの地帯』のページを開けたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、そこから先のない両脚を包み込む真っ白な包帯だった。よく見ると、左腕も肩からない。その少年がベッドからじっとこちらを見つめている。残ったもう1つの手を両手で包むように握る父親も、こちらを凝視する。タイトルは「全てがバラバラになった」。
 前夜にガザ北部からカッサム・ロケットや迫撃砲がイスラエルに向けて発射された翌日の9月26日、イスラエル軍の戦車が北部のベイトハヌーン町に侵入してきた。少年たちが戦車を見ようと集まってきた。その少年たちが群をなす道路に向けて、突然、1台の戦車が砲撃した。少年たちの近くに着弾し、5人が即死、20人が負傷した。その1人が15歳の少年、アサド・マフムードだった。病院に担ぎ込まれたが、右脚は膝の上から、左脚は膝の下から、また左腕は肩から切断された。腹部にも破片を受けた。レビ記者は、アサドが朝登校し、午後帰宅後、現場へ向かい、負傷するまでの経緯や、息子の負傷を知り半狂乱になって息子を探す父親の動向を淡々と記述している。
 そしてルポの最後を、レビ記者はイスラエル軍スポークスマンのコメントで締めくくっている。「対戦車砲や迫撃砲で攻撃され、イスラエル軍はまさに発射しようとするその対戦車砲の発射台に向けて砲撃した。テロ組織とテロリストが攻撃してくる大半の場合は、人口密集地からであることは明記されるべきである。そこでは彼らは子どもたちや無辜の住民を盾に使う。このような人口密集地での戦闘の結果として、また居住区からの敵の発砲の結果、罪のない住民が負傷する可能性はあり、その責任はただテロ組織にある」
 レビ記者は、そのコメントに一切の解釈もつけない。しかし、前半の記事を読み進んできた読者は、その軍の言い分がいかに欺瞞に満ちたものであるかを思い知る。

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