Webコラム

日々の雑感66
パレスチナ・2007年 秋 20

2007年11月17日(土)
滞在先の家族のこと

 私は、これまでの長いガザ取材でホテルに滞在したことはほとんどない。民家への住み込みを取材の原則とし、滞在する民家を拠点にして取材活動をする。以前にも書いたが、民家の住み込みにはいくつかの利点がある。
 1つは、新聞社やテレビ局の特派員たちとは違い、私たちフリージャーナリストには1日100ドル以上もするホテルに何日も滞在するほどの財力はない。しかも私のように最低でも2週間、長ければ1ヵ月近い長期滞在によって現場でいろいろ手探りしながら取材の方向性と取材対象を決め、亀のような速度で取材をしていくやり方をする場合は、ホテルでは私の財力では取材は長く続かない。
 2つ目の理由は、民家に住み込むことで、1日丸ごと住民の生活が見えてくることだ。ホテルでは午後か夕方、取材から部屋に戻れば、それで現場の取材は終ってしまうが、民家にいると24時間が“取材時間”である。例えば、まだイスラエル軍の統治下にあったジャバリア難民キャンプの民家に住み込んだときのように、外出禁止令下の夜、イスラエル兵の足音に脅える家族の様子は、ホテルにいては絶対に知ることができない。日常の家族の会話や、その家に出入りする隣人たち、客人たちとの世間話から生活に関する重要な情報が入ったりする。それは「取材」「インタビュー」といった相手が構える状況から出てくる「公式見解の答え」ではなく、無防備な本音の会話やつぶやきである。
 そのような仕事の話を離れても、私のような“淋しがり屋”は、夜、ホテルの一室にずっとこもるより、子どもたちの笑い声や叫び声、それを叱る親たちの怒声が響き渡る家族の中にいたほうがずっと落ち着く。
 そして何よりも、食事である。昼食には奥さんの手料理が日替わりで出てくる。レストランの単調な食べ物とは大違いだ。パンが苦手な私でも、家族と輪になってパレスチナ料理と共に食べるパンなら苦にならず、おいしく食べられる。
 出てくるその料理の種類によっても、この家族の家計の様子をうかがえるし、最近のガザの食生活の状況も推し量れる。週に肉料理が何回出てくるか、またそれは牛肉か鶏肉か、朝食の卵は1人当たり1個出せる状況かどうかなど、いろいろな事が食事の中から見えてくる。

 私が今回、住み込んだのはビーチ難民キャンプの民家である。私が長年住み込んだジャバリア難民キャンプのエルアクラ家の長男バッサムが電話で方々の友人、知人たちに当たってくれた結果、この家族と出会った。
 一家の主人、ワエル(44歳)は、パレスチナ自治政府の職員で、通訳の仕事をしていた。ハマス統治以後、仕事に出ていないが、ラマラの自治政府から給与は出ている。彼は2001年に欧州へ1年間留学する機会を得た。
 奥さんのアムナ(39歳)は公立小学校の教員である。この一家が弟一家と共同のローンで3階建ての家を建てることができたのも、共稼ぎだからである。この一家の居間の窓からは、眼下に難民キャンプの平屋建ての、重石を乗せたトタン屋根の家々が見渡せるし、その先にはガザの海が見える。
 子どもは長女ハニン(12歳)、長男ワリード(9歳)、次男マフムード(8歳)の3人で、いずれもUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の学校へ通っている。夫婦の寝室、長男と次男の寝室兼勉強部屋、そして長女の寝室兼ワエルの書斎と、難民キャンプの一般的な家庭よりずっと恵まれた生活環境である。私がパレスチナ人の家庭に住み込むとき、大方、家族みんながくつろぐ居間が私の仕事場となり、そこに並ぶマットレスが私の“寝床”になるが、今回はワエルが長女の部屋を私のために空けてくれた。そのため、個室でゆっくり眠れるし、何よりも好きなときに起きて、静かに仕事ができるのがありがたい。インターネットでスポーツに関するさまざまな情報を集めるワエルは、家にADSLを入れている。私もパソコンにそのソフトを入れてもらい、インターネットを自由に使えるのも大助かりだ。
 英語が堪能で、しかも給与をもらいながら休職しているワエルが、私のコーディネーター兼通訳を務めてくれることになった。コーディネーターと四六時中いっしょであることは、仕事を進める上で大きなメリットがある。セキュリティーのために、今回私は、これまでのように単独で移動することを避けている。ワエルは同じ家にいるため、家を出てから戻ってくるまで、彼にずっとエスコートしてもらえる。取材の打ち合わせ、手配なども家で直接やりとりできる。また時々訪問しあう彼や奥さんの家族や親戚も、私にとって貴重な情報源であり、通訳のワエルが側にいるからすぐに取材ができる。

 長女は学校の午前のシフトで午前7時から学校が始まり11時に終る。一方、長男、次男は午後のシフトで午前11時ごろ家を出て午後4時ごろ帰宅する。パレスチナでは子どもの数が多すぎて学校や教室の数が追いつかず、公立学校も難民の子どものためのUNRWA学校も、午前の部と午後の部の2シフトに分けて使うことで施設難を切り抜けている。奥さんの仕事も午後のシフトである。朝食は午前8時過ぎに長女を除く4人で取り、遅い昼食(兼夕食)を家族全員がそろう午後4時過ぎに食べる。奥さんは仕事から帰ってから料理をする時間がないために、朝、仕事に出る前に昼食の大方の準備を済ませてしまう。
 これまでさまざまなパレスチナ人の家庭に住み込んできたが、子どもの家庭教育の面では、ワエルの一家は他の家族とは違っている。昼食兼夕食が終ると、教員の奥さんが長女、長男、そして次男の順にマンツーマンの個人授業を始める。ワエルも母親の“授業”を待つ他の子どもの“教師”を務める。英語の“授業”は父親ワエルの独壇場だ。
 この家には大方の家庭と違い居間にテレビがない。大抵、子どもたちは学校から帰るとすぐにテレビのアニメ番組やドラマにかじりつくものだが、この一家では午後も夜も、夫婦の寝室に置かれたテレビを観ている子どもたちの姿を見たことがない。テレビは、大方サッカー国際試合が大好きな父親ワエルが夜に衛星放送を見るために使われているようだ。「子どもたちにはテレビを見せないのか」とワエルに訊くと、学校に行くまでの1、2時間だけテレビを観る時間を許しているという。子どもたちはアニメ番組に夢中らしい。
 2度の食事も、一家5人が大きなお盆の料理を囲む。両親と子どもたちの間に会話と笑い声がはずむ。そして1対1の個人授業。とにかく子どもたちと両親とが向かい合い、会話を交わす時間が驚くほど長い。こんな密接な親子の関係の例は、私の長いパレスチナ滞在の中でも多くはない。それは子どもの数が少ないことが大きな要因だろうが、何よりもこの両親が子どもの教育、とりわけ家庭教育の重要性を深く認識しているからだろう。
 家庭教育としつけが行き届いていることは、3人の子どもたちの礼儀正しさと“純朴さ”に現われている。貧困と社会の荒廃に伴って、純朴さを失い、変に大人び、すれてしまった多くのガザの子どもたちとは対照的である。
 一方、両親の個人授業の成果は子どもたちの学校の成績に反映している。3人の子どもともクラスでトップ、とりわけ長女ハニンは、3年連続で学校の最優等生として日本政府からの賞品をもらった。布の袋に入れられた賞品はノートなどの文具やハンカチ類だが、ハニンは日本政府からもらった3つの袋を日本人の私に見せたくてしようがない様子だった。
 ワエルは優秀な子どもたちの将来のために、海外への移住を願っている。ガザには子どもたちの将来はないと思うからだ。アメリカ政府が実施している「くじ引き」で年間5万5000人の移住者を受け入れる制度にワエルは2度応募した。家族の5人の写真と自分の経歴を送ったが落選した。しかしまた挑戦するつもりだ。その応募のための家族の写真撮影を頼まれて、私はカメラを取った。

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