Webコラム

日々の雑感 86:
拙著『沈黙を破る』を出版に寄せて・「あとがき」から

2008年5月9日(金)

 今日、4年ぶりにパレスチナ・イスラエル問題に関する著書を出版する。
 企画を思い立ってから4年、取材と執筆に3年を要した。ジャーナリストとして“パレスチナ”と関わって23年になる私の模索の一到達点といえる、私にとって“記念碑”的な著書である。本書を執筆する動機と狙い、自分にとってこの書を世に問う意味、またその経緯などを、「あとがき」に凝縮した。その文章を転載することで、拙著の紹介に代えたい。
 なお現在、制作中のパレスチナ記録映像シリーズ全4作品『届かぬ声─占領と生きる人びと─』(仮題)の第4部『沈黙を破る─元イスラエル軍将兵が語る占領─』(仮題)の後半は、本書の内容を映像化したものである。

『沈黙を破る』あとがき

 「なぜ日本人のあなたが、遠いパレスチナ・イスラエルの問題を追い続けるのか」「なぜ日本人にもっと直接関わる問題、日本人にしかできないテーマを追わないのか」──パレスチナ・イスラエルの現場で取材を始めてから22年間、多くのパレスチナ人やイスラエル人、そして日本人に私はこの問いを投げかけられ続けてきた。いや誰よりも私自身、そう自問し続けてきたといっていい。組織に所属するジャーナリストたちと違って、私たちフリーランスのジャーナリストは、追うテーマを自分の意志で自由に選ぶことができる。ただ選んだテーマは、自分の生き方や考え方と深く関わり、時間の経過と共にそれは自分自身とは切り離せないものになっていく。そうでなければ、その主題を追い続けるジャーナリスト活動の中で幾度となく直面する精神的な“壁”、また経済問題を初めとする生活面での様々な“壁”を乗り越えられないからである。
 私自身について言えば、学生時代、進路に迷い飛び出した1年半におよぶ世界放浪の模索の旅のなかで、偶然のきっかけで訪ねた現地で出会ったのが“パレスチナ問題”だった。それまで政治問題や学生運動にもほとんど関心を持たない「ノンポリ」だった私にとって、初めて強い好奇心を抱いた国際問題だったから、受けた衝撃も大きかった。その後、ジャーナリストとして現地の人びとと長く生活を共にし、彼らの生きる姿、抱えるさまざまな問題を目の当たりにするなかで、まだ形が定まらなかった私のものの考え方、価値観、世界観に少しずつ輪郭ができ、形を成していった。ある意味では、私は人間形成の上でも、またジャーナリストとしても“パレスチナ問題に育てられた”といってもいいかもしれない。それから22年間、私は現地で次々と起こる事象と、その中で必死に生きる人びとの“磁力”に引き寄せられるように何度も現場へ通い、ジャーナリストとして現地の状況と声を伝え続けてきた。
 そういう太い紐帯を持っているはずのパレスチナ・イスラエル問題であっても、「なぜ日本人の自分が」という疑問は、常に私の中から消えることはなかった。

 私にはもう1つ、学生時代に出会った問題があった。それは“ヒロシマ”、“被爆者”である。広島の富永初子さんという、独り暮しの老被爆者との出会いがきっかけだった。原爆後遺症のがんのために乳房を切除し、白内障でほとんど視力を失い手探りで自炊生活を送りながらも、当時70歳近い富永さんは核兵器廃絶の署名集めのために毎週、原爆資料館の出口に立ち続けた。被爆者の中でも富永さんを特異な存在にしたのは、たとえ原爆の被害者であっても日本人はアジアの民衆に対し“加害者”であったという自覚だった。広島で被爆し祖国へ帰った韓国人被爆者たちが広島の日赤病院に治療にやってきたときだった。病院を訪ねた富永さんは、十数人の韓国人たちが治療を受ける病室の入り口に白い杖ですっくと立ち、「私は被爆者ですが、日本人の1人としてみなさんに大変なご苦労をおかけして、ほんとうに申しわけありませんでした」と深々と頭を下げた。
 この富永さんに触発されるように、教科書改ざん問題で揺れた1982年、私は韓国に渡り、被爆と日本の植民地政策の犠牲者という“二重の被害者”である韓国人被爆者たちを追った。それから12年後の1994年、私は再び韓国へ渡った。今度は、富永さんがどうしても会いたいと願いながら、老弱と病気で「ドクター・ストップ」を宣告され、その思いが果せなかった韓国の元日本軍「慰安婦」たちに私が代わって会うためである。元「慰安婦」の方々の声と姿を撮影し、その映像を富永さんに観てもらおうと考えたからだった。私は、かつて「慰安婦」とされたハルモニ(おばあさん)たちが共同生活する施設、ソウルの「ナヌム(分かち合い)の家」を訪ねた。これがきっかけで、その後私は、「ナヌムの家」で出会ったハルモニたち、とりわけ“絵を描くハルモニ”姜徳景さんの生涯を追い続けることになる。それは私が日本人として、またジャーナリストとして自国の“加害の歴史”と正面から向き合わなければならない辛い作業だった。

 パレスチナ・イスラエル問題と日本の加害歴史の問題。まったく分離し関連のないように見えた私の中のこの2つのテーマに、初めて明確な接点を与えてくれたのがこの「沈黙を破る」の元イスラエル軍将兵たちの証言だった。そしてその “繋ぎ”の重要な要(かなめ)となったのが、精神科医・野田正彰氏とその著書『戦争と罪責』である。その両者の存在がなければ、この2つのテーマが私の中で1つになることはなかっただろう。
 本書は私にとって2つの大きな意味を持つ。1つは、この22年間にわたって私が取材し伝え続けてきた、“被害者”パレスチナ人側の視点からの“占領”に、“加害者”側の証言が加わることで、“占領”の実態がより立体的・重層的になり、かつ実証的に見えてきたことである。
 そしてもう1つは、冒頭の「なぜ日本人が、遠いパレスチナ・イスラエルの問題を追い続けるのか」という問いに、本書によって初めて具体的な答えの一部を提示できたことである。

 本書の根幹となる「沈黙を破る」のメンバーの元イスラエル軍将兵たちへのインタビューを思い立ったのは2004年8月、そして実際に最初のインタビューが実現したのはその1年後の2005年8月だった。それから翌年の8月、さらに2007年10月と足掛け3年のイスラエル取材になった。一方、京都での野田正彰氏へのインタビューは、2007年2月と9月の2回にわたり、合わせて7時間におよんだ。
 本書の出版を可能にしてくれたのは、誰よりも、私の長いインタビューを受け入れてくれた「沈黙を破る」のメンバーたちである。ユダ・シャウールを初め、本書に登場する元イスラエル軍将兵たちは、その言動のためにヘブロンの入植者たちなど、彼らの口を封じようとする極右のイスラエル人たちに言論による攻撃のみならず物理的な攻撃も受け続けている。そういう危険を冒しても、イスラエル国民に“占領”の実態を知らせるために活動を続ける彼らに深い敬意を抱き、本書の完成のために協力を惜しまなかった彼らに心から感謝したい。
 また、野田正彰氏には、元将兵たちの長いインタビュー原稿に目を通していただき、その証言を詳細に分析していただいた。野田氏の協力なしには本書の完成はありえなかった。2度にわたって長時間、納得がいくまで何度も質問を繰り返す私に、辛抱強く向き合い答えてくださった野田氏への深い感謝の意を記しておきたい。
 本書完成までの作業のなかで最も心を砕いたのは、当時の微妙な心理状態を流暢で、しかも早口の英語で語るユダとアビハイの証言だった。それぞれ2時間近い2人の証言は正確を期すため、まず現地で音声テープを全て書き取ってもらい、それを当時、スタンフォード大学の博士過程(臨床心理学)で、戦争や災害、虐待によるPTSDを研究していた伊藤圭子さんに日本語訳をお願いし、さらにそれをもう一度私が英文とつき合わせて手を加え、構成しなおしていくという、気が遠くなるような過程を経て活字化した。ヘブライ語による証言は、まず現地で英文に翻訳し、それを私が日本語訳した。他の英語による証言は、インタビュー・テープを私が直接、日本語訳したものである。
 一方、野田正彰氏の7時間のインタビューは、横浜国大生らのボランティアのみなさんにテープからすべて書き取ってもらい、それを元に私が整理しまとめた。
 また 2007年10月の「沈黙を破る」メンバーやその家族、顧問へのインタビューには、現地在住の井上文勝氏にコーディネートをお願いした。
 本書のために協力していただいたこれらの方々にも心からお礼を申し上げたい。

 前著『パレスチナの声、イスラエルの声』や岩波ブックレット『パレスチナ ジェニンの人々は語る』、『米軍はイラクで何をしたのか』と同様、今回も編集者、吉田浩一氏が私の“伴走者”だった。まだ“原石”のままだったユダ、アビハイらの証言の粗訳原稿だけを頼りに、編集部で企画を通してくれた吉田氏は、遅々として進まないその後の私の取材・執筆に、「ほんとうに形になるのか」と不安だったに違いない。辛抱強く私の執筆を見守り、やっと形を成してきた原稿に的確な助言を惜しまなかった吉田氏に深く感謝したい。
 また私事だが、本書の完成までの長い年月で、物心両面で支えてくれたのは妻、幸美だった。原稿の最初の“読者”でもある彼女からの手厳しい批評は、大きな助けとなった。

 前出した被爆者、富永初子さんは長崎生まれのカトリック信徒だった。どうしても聖地を訪ねたいという富永さんを、私はパレスチナ・イスラエルへ案内した。1987年の夏のことである。エルサレムの聖地を訪ね歩き、占領下のパレスチナ人の実態を見聞したのち、富永さんは当時、イスラエル国内のパレスチナ人の街、ナザレ市で開かれていた「国際ボランタリー・ワークショップ」に招かれた。それはイスラエルのみならず世界から集まった人びとが人種を越えて、道路や学校建設など文字通り“ナザレの街づくり”を手伝うボランティア活動だった。
 夜、イスラエル国内のパレスチナ人とユダヤ人、占領地のパレスチナ人、そして外国人参加者など数千人が集う野外集会のステージで、富永さんは「ヒロシマからのメッセージ」を読み上げた。

 「自分が生まれた土地で平和に暮したいと願っているあなたたちパレスチナ人たちは、なぜ抑圧されなければならないのでしょうか。
 抑圧の苦しみを、その長い歴史のなかで知り尽くしているはずのユダヤ人たちが、なぜもう1つの民族パレスチナ人を抑圧できるのでしょうか。人びとはみな、自分が生まれ育った土地に住む権利があります。この生存権を犯すことは大罪です。
 私はアメリカ政府が落とした原爆の被害者です。パレスチナ人のみなさんの心と身体の苦しみを想うと、私の身体と心が切り刻まれるような痛みと怒りを感じます。
 ユダヤ人のみなさんに訴えます。パレスチナ人のみなさんが人権を取り戻せるように協力してください。そしてまたイスラエルから原爆を亡くすようにたたかってください。
 心の鎖で結び合い、共存のためにいっしょにたたかうパレスチナ人のみなさんとユダヤ人のみなさんに、神の恵みがありますように」

 それから15年後の2002年夏、私がイスラエル軍のジェニン侵攻の取材を終えた直後、富永初子さんは91歳で他界した。
 “日本の加害歴史と被害者意識”の問題へと私の目を向けさせ、本書を世に出す最初の動機を私の中に創ってくれたのはこの富永初子さんだった。もし富永さんが本書を読んでくれたら、どういう感想を語ってくれただろうか。
 生前、何の恩返しもできなかった富永初子さんに、本書を捧げる。

土井敏邦

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