Webコラム

日々の雑感 116:
NHKドキュメンタリー『兵士たちの悪夢』2(承前)

2008年9月24日(水)

NHKドキュメンタリー『兵士たちの悪夢』1からの続き

【アメリカ】

第一次世界大戦で多数の患者が発生した戦争神経症。

世界最大の軍事力を持つアメリカも、やがてその問題に直面することになる。1941年、アメリカは真珠湾攻撃をきっかけに、第二次世界大戦に参戦する。

(ルーズベルト大統領の議会演説)
「1941年12月7日は屈辱の日である。いかに時間がかかろうと、我われはこの計画的な侵略に対し、絶対的な勝利を収めるまで戦い抜く」

アメリカは新しい徴兵制を施行。若者たちを次々と戦場へ送り込む。

第二次世界大戦は、航空機や戦車など、機動力のある兵器が主役として登場。戦場の様子はさらに変貌を遂げる。

戦場は世界各地に拡大。アメリカから遠く離れた場所で、兵士たちは激しい地上戦を戦った。

前線での野戦病院の診察が軍によって記録されている。

目立った外傷がないのに、戦えなくなった者。気分が激しく落ち込んだ者。戦争神経症に似たこの症状を軍は「戦闘疲労、戦闘消耗」と呼んだ。

「これ以上、人が殺されるのを見るのが耐えられません」
「実際に殺されるのを見たのか?」
「山ほど見ました」

日本軍との地上戦が行われた沖縄。女性や子どもなど民間人を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられる。ここでも多くの兵士に「戦闘疲労」の症状が現れた。

そうした中、前線へ向かった軍医がいた。フロイトの精神分析を学んだモーゼス・カウフマン(アメリカ軍精神科医)だ。カウフマンは、戦闘疲労は戦場のどんな兵士にも起こりうる症状だと捉えていた。

得意の催眠療法を導入し、兵士の心に潜む戦場の記憶やトラウマに光を当てていった。

アメリカに送り返され、治療を受ける兵士を記録した映画(『光あれ』、1946)。アメリカ陸軍の依頼で、ハリウッド映画の巨匠、ジョン・ヒューストンが監督を務めた。

ニューヨーク州にあるこの陸軍病院には、毎週150人の患者が新たに収容されていた。

(軍医)「気分はどうですか?」
(兵士)「いいです」
(軍医)「海外にいたんですか?」
(兵士)「そうです」
(軍医)「どこに?」
(兵士)「フランスにいて、ドイツに移りました」
(軍医)「病院にいましたね?……頭痛がして、ぜいぜいしますか?」
(兵士)「恋人の写真を見ていて……(泣く)……すみません。続けられません」

(兵士)「戦地で仲間を亡くしました。彼は僕の代わりに偵察に行き、それで気持ちが混乱してしまって」
(軍医)「不安になりましたか?」
(兵士)「僕が最初に出なければならなかったのに、彼が先に出たので撃たれてしまいました。彼は撃たれたと言って、僕の足元に転がって来た。僕は軍医を探したんだけどいなくて。彼のところに戻ろうとしたけど、行かせてくれなかった。彼と僕は部隊の最後の生き残りで」
(軍医)「その時どう感じましたか?」
(兵士)「もうどうなってもいいと思いました」

この兵士は沖縄での砲撃戦の後、記憶を失い、自分の名前さえ思い出せなくなっていた。催眠療法を得意とする軍医が治療を行う。

(軍医)「完全にリラックスして、眠ることに集中して。私が指を鳴らすと手が離れます。そして眠ってしまいます。……後ろのいすに座ってください。……昔に戻りますよ。沖縄に戻ろう。……あなたは話せるし、すべてを思い出せる。沖縄に戻った。何が見える? 話して」
(兵士)「砲弾の近くにいます」
(軍医)「続けて。何が起きている?」
(兵士)「砲撃です。……砲弾が飛んできます」
(軍医)「どこから?」
(兵士)「日本軍から。……避難しろと言われました。……仲間がけがをした。……彼は連れて行かれた。その時……」
(軍医)「大丈夫、話して。思い出したんだね?」
(兵士)「爆発が」
(軍医)「爆発を思い出したね?……話し声が聞こえますか? 何かが見えますか?」
(兵士)「いいえ」(手が震える)
(軍医)「どうして震えてる?」
(兵士)「もう嫌だから」
(軍医)「嫌なんだ? 忘れたいんだね? でも君は覚えているよ。……今はアメリカに戻ってきて、沖縄から離れている。……私たちのところに戻ってきたね。……沖縄のことも爆弾のことも全部覚えているよ。終ったんだ。……リラックスして、恐怖も不安もなしだ。……目が覚めたら、痛みもない。……調子はどう?」
(兵士)「いいです」

戦争で心に傷を負った兵士たちの実態を記録したこの映画。アメリカ陸軍の依頼で制作されたものの、その後20年以上に渡って公開が禁じられる。その理由について、監督のジョン・ヒューストンは、自伝『王になろうとした男』にこう書いている。

「理由の名目は患者のプライバシー保護だった。けれどもそれが本当の理由だったとは思えない。つまるところ陸軍省は『闘う兵士の神話』を守りたかったのだ。『兵士は命を落とすかもしれないし、傷を負うかもしれない。しかし彼らの精神は不屈なのだ』と」

心理的なダメージにより、戦えなくなった兵士たち。その数はアメリカ軍の想像を上回るものだった。過酷な戦場でも戦える強い兵士をどうしたら育てられるのか。兵士たちの心理に焦点を合わせた、新たな取り組みが始まっていた。

歴史学者S・L・A・マーシャル。マーシャルは第二次大戦末期、アメリカ陸軍の要請を受け、数多くの兵士たちにインタビューし、実際の戦闘中に兵士たちがどういう心理状態に置かれていたかを調査した。

その成果をまとめた著作『発砲しない兵士たち』(1947)。マーシャルは、兵士たちが戦場で陥りやすい感情を指摘した。

未知の環境で敵に攻撃されたときの恐怖心や孤立感。予測できない戦闘でのパニック。マーシャルはこうした問題が“発砲率”という数字に表れると説明する。

たとえ意欲の高い歩兵部隊であっても、実際の戦闘で兵士が敵に発砲する割合は、25%に過ぎないというのだ。この数字は、その信憑性をめぐって大きな議論となる。しかし当時の軍に与えた影響は大きなものだった。

ディーン・ウィリアムス。かつてウエストポイント陸軍士官学校で教鞭をとった軍事史の研究者だ。マーシャルが陸軍に与えた影響について本にまとめている。
「兵士を戦わせるうえで、何が問題となりうるのか。大混乱や破局に直面してもなお兵士に武器を取らせ、戦わせるにはどうすればいいのか。これは軍が取り組まなければならない最も重要なテーマです。マーシャルは、まさにこの問題を提起したのです」

マーシャルは兵士が戦場で直面する問題をこう指摘する。
「人は同胞たる人間を殺すことに対して、普段は気付かないが、内面に抵抗感を抱えている。その抵抗感ゆえに義務を免れる道さえあれば、何とか敵の生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に良心的兵役拒否者になるのである」

そのうえでマーシャルは、兵士の訓練を戦場の実態により近づけていくように提言する。

(ウィリアムス)
「兵士たちの心の問題を解決し、戦場で戦わせるには、どういう訓練をすればいいのか。その答えが、訓練をできるだけ現実に近い形で行い、兵士が戦場で目にする光景をすでに馴染みのあるものにしておくというものでした。そうすれば、どういう状況に直面しても、兵士が動揺することはなくなります」

『発砲訓練1』。後にアメリカ陸軍に採用されるマニュアルの原案。射撃の標的として、より実戦に近い人型をものを採用することが記されている。

(ウィリアムス)
「兵士が他人を殺すことに抵抗を持つとすれば、それを克服する訓練が必要です。射撃の訓練も丸や四角の的を狙うのではなく、人間の形をしたシルエット標的を使います。すると兵士たちはこう考えるようになります。『敵はあの人型のようなもので、実際の戦場で自分が撃つのも、人間のように見える物体なのだ。訓練でいつも人型の物体に向かって練習していることを実行すればいいのだ』と。これが心理的な抵抗を乗り越える方法でした」

1950年、朝鮮戦争が起きると、マーシャルは軍によって再び現地に派遣された。その時の報告書『朝鮮戦争における歩兵隊の作戦と武器使用の分析』には、歩兵の戦闘への参加率が第二次大戦時の2倍に跳ね上がったと記されている。

1957年、マーシャルは軍に功績のあった民間人として表彰されている。心理分析によって、より強靭な兵士を作ろうとする訓練、そのことはやがて兵士の心に思わぬ影を落としていくことになる。

【ベトナム戦争】

アメリカは1965年に本格介入、北ベトナムへの空爆開始。この年にアメリカは20万人の兵士を送り込む。

アメリカ軍はベトナム戦争を闘う兵士をどのように訓練したのか、その内実を知る人物、ベトナム帰還兵のスティーブ・ハスナ(61)(元訓練担当軍曹)。1967年から1年間、ベトナムで戦った後、新兵を訓練する軍曹になった。

1960年代に撮影された新兵訓練の様子。「すべておれの言うとおりにしろ」。ハスナは入ってくる新兵に軍隊の基本を繰り返したたきこんだ。連日、立ち直れなくなるまで新兵の身体をいじめ抜く基礎訓練。新兵はあらゆる場面で、「kill(殺せ)」という言葉を叫ぶように指導を受ける。「殺せ」という言葉を繰り返すには重要な意味があったとハスナはいう。
「基礎訓練とは条件付けです。新兵から民間人の部分を消し去り、兵士に変えるために行います。兵士の仕事は敵を殺すことであり、そのために命を落とすことを恐れるなと、徹底的に教え込みます」

射撃訓練にも「条件づけ」の原理が応用されていた。マーシャルの提言に基づいて採用された人型の標的も、突然、起き上がってくるポップアップ式に改良されている。

「標的を狙って撃つ訓練を何度も何度も繰り返しておけば、実際の戦闘でも、人間ではなく、ただの標的に向けて発砲していると考えるようになります。もう喜んで撃つようになります。起き上がった標的をバンと撃つ。その時はもう何も考えてはいません」

戦争は次第に泥沼化していく。解放戦線は各地に次々と勢力を拡大、乏しい資材を駆使してゲリラ戦を展開。アメリカ兵を恐怖に陥れていった。

こうした中、アメリカ軍はサーチ・アンド・デストロイ(索敵殲滅)といわれる作戦を始める。解放戦線の根拠地とみられる村を空から探索した後、地上部隊を投入。その村にいる村人を尋問する。解放戦線の村と見れば、貯蔵してあった食料を捨て、村を焼き払う作戦だった。こうした作戦が実行できるよう、兵士たちに事前の教育が行われていたという。

「まず、敵は人間以下だと教えます。ベトナム人は銃を真っ直ぐ撃つことさえできないと教えたりしました。あいつらの目は細くてものがよく見えない。アメリカ人の丸い目とは違うんだとね。敵を殺させるには、相手が人間だという感覚を徹底的に奪っておくことが重要です。なぜなら敵も同じ人間だと感じた途端、殺せなくなるからです」
「集中しろ、あそこに敵がいる。舌を出しているだろう。狙いを定めろ」
「すげ笠を被った人型の標的を使っていました。ベトナム人そっくりに作られた標的です。東洋人の特徴が強調されていました。吊り目をしていて、すげ笠を被り、カラシニコフ銃を持っていました」

ジャングルの接近戦には、新たな射撃法が導入された。標的を確認できなくても、瞬時に発砲する訓練が行われた。
「茂みのなかで、銃の閃光や煙、何か動くものが見えれば、そのあたり一体をめがけて撃ちまくります。この時、標的を確認しません。訓練で繰り返しこの撃ち方を叩き込めば、人間を撃っているという感覚を失います」

解放戦線の農村を想定して作られた施設に銃を乱射して突入していく兵士たち。これはサーチ・アンド・デストロイ作戦が本格化した1967年に撮影された訓練の様子だ。

【アメリカ国防総省】

アメリカ陸軍のロバート・スケールズ元陸軍少将(訓練・教義司令部)。改良を重ねてきた訓練は、アメリカ兵の戦闘能力を大きく向上させたという。
「その効果は劇的なものでした。ベトナム戦争までに、待ち伏せされたような状況での兵士の戦闘への参加率は、事実上、100%になりました。ベトナム戦争では、敵も味方も全員が自動小銃を持っていました。兵士は待ち伏せを受けると、銃をオートに切り替えます。そして茂みの向こうの見えない敵に向けてババッと撃つように訓練が行われました。兵士を不測の事態に備えさせるためには、心理的な条件づけが重要です。接近している戦闘は突然始まるものです。その衝撃や激しさは予測をはるかに超えます。兵士をそれに慣れさせておくために、条件づけをしておくのです」

しかしベトナム戦争の実態が次々と報じられていくなかで、アメリカ軍を根底から揺るがす事件が起こる。

1968年3月に起きたソンミ事件だ。解放戦線を追って、南ベトナムの農村、ソンミ村に入ったアメリカ陸軍の部隊が、老人、女性、子どもなど、民間人およそ500人を殺害したことが明らかになる。

「我がアメリカ軍は、ベトナムに一体何をしに行っているのか」。事件の写真はアメリカ社会に大きな衝撃を与えた。

その後の調査によって、虐殺は軍の命令で行われたことが明らかになっている。部隊の責任者は逮捕され、軍法会議で有罪判決を受けた。事件は作戦に参加した兵士たちのその後の人生を大きく変えていく。

25人の村人を殺害したと証言した元陸軍兵士、バーナード・シンプソン。当時19歳だった。事件から20年後、イギリスのテレビ局の取材に対し、自らの行為を克明に語っている。
「1人の女性が何かを抱えて走り去りました。女を撃ちたくなかったけど、命令でした。私は彼女がきっと武器を抱えているのだと思いました。でも実際は赤ん坊でした。3回か4回か撃った弾は、彼女の身体を貫通し、赤ん坊の顔を吹っ飛ばしていました。私はおかしくなってしまいました。人を殺す訓練が私の中でよみがえってきたのです。1人を殺してしまえば、2人目はそれほど抵抗ありません。次はもっと簡単です。何の感覚も感情もなくなり、とにかく殺しました」

事件が報じられると、国内のベトナム反戦運動に拍車がかかる。それは命令に従い、作戦に従事した兵士をさらに追いつめることになった。
「私は自分が許せません。たとえ命令を受けてやったことだとしても、どうして忘れたり許したりできるでしょう」
「(ソンミ虐殺の報道記事や写真を指差し)これが私の人生です。私の過去、現在、未来です。(それぞれの写真を指差し)この男性も子どもも……、この女性と赤ちゃんです。写真を見なくても夢に出てきます。心に焼き付いています」

インタビュー当時、シンプソンは精神科の治療を受けていた。
「私の神経をいくらかでも鎮めてくれるのはこれだけ(机に並んだ大量の薬ビン)です。薬を飲んでも緊張していますが、これなしだと爆発してしまいます。自分をコントロールするために飲んでいます。飲んでいないと誰かに何かをしてしまうかもしれません。薬を飲めば大丈夫です。本当に助かっています。でもたくさん飲まないとだめです。それにこの薬は本当に強い」
シンプソンはこのインタビューの8年後の1997年、ショットガンで自ら命を絶った。

【ミシシッピ州ジャクソン】

シンプソンは、それまでに3度、薬を飲み、自殺を図っていた。生前、母親に「自分は死ぬしかない」ともらしていたという。

(弟・ラリー)
「兄はここで自殺しました。祖母はあの窓から見ていました」
その日、シンプソンは「行かなければならない」と突然言い出して、荷物をまとめ、その直後に帰らぬ人となった。

(弟・ラリー)
「電話を受けて、急いでやってきました。兄は庭で横たわったままでした。しばらく会っていなかったので、最初は衝撃を受けました。しかし、このほうが兄にとっても私にも良かったのかも知れません。苦しみ続けていた兄が救われる方法はこれしかなかったのです」

(母・ヘイゼル)
「ベトナムから帰ってきた時、息子は全く別人でした。結局その後、息子のことを本当に理解できないままでした。人殺しとは無縁の世界で育ち、人生を幸せに楽しんでいた人間が、別世界に連れて行かれたうえ、元の生活に戻る訓練は受けていないのです。だから変わってしまったのです。……あんなことをして、どうして前向きに生きていくことができるのか」

自らもベトナム戦争に従軍した弟のラリーは、兄が口にしていた言葉を今でも思い出すという。

「戦闘能力を極限まで高める訓練は、兵士に何をもたらしたのか」。ベトナム戦争の時代を兵士として生きた、バーナード・シンプソンの重い問いかけだ。

ソンミ事件が報じられた直後、ベトナム帰還兵たちが戦争体験を告白する集い、「冬の兵士」の聴聞会が開かれる。敵を殺すことを刷り込まれた兵士たちの怒りが噴き出す。

(兵士たちの証言)
「民間人と敵兵を区別するのが建前だったが、死んだやつは皆、敵兵だということにして、結局おかまいなしさ」
「柔道、ナイフなど、あらゆる訓練で、殺せ、殺せ、殺せと叫んだ。やつらを殺すのが待ち遠しかった」
「やつらは吊り目で、自分たちより劣っていると教えられた。アメリカ人は文明人だと言って、やつらのことなど見下していたんだ」

精神科医のロバート・リフトン(ニューヨーク市立大学、精神医学、名誉教授)。アメリカ帰還兵の心の問題にいち早く気付いたリフトンは、兵士たちのインタビューを精力的に行い、分析を重ねていった。
「私が話を訊いたベトナムの帰還兵は、残虐行為につながる重圧を受けていたと主張する一方で、人を殺した責任が自分にあることを強く認識していました。ですから、ソンミ事件に関わった兵士でも、自分の心と向き合えた者は、罪の意識に生涯苦しむことになりました。そうした人は、兵士として敵を殺すことを叩き込まれた自分と、それを実行した時の恐ろしい記憶を抱え、人生を生きていかなければならないのです」

1980年、リフトンなどの提言を受け、アメリカ精神医学会の診断マニュアルに新たな診断名が追加される。それがPTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。

兵士の心の傷、トラウマが症状を引き起こし、その後の人生に重大な悪影響をもたらすことが初めて認知される。第一次世界大戦でシェル・ショックが見つかってから、60年以上が経っていた。

(リフトン)
「PTSDの具体的な概念は、ベトナム戦争の研究で確立しました。かつてシェル・ショック、戦争神経症、戦争疲労と呼ばれたものは、すべてPTSDと同じものだとわかっています。PTSDが認知されたことは、兵士たちの苦しみを理解するうえでも、そして社会にとっても、重要なことでした。PTSDは、過度の飲酒や暴力などによって、自分を傷つけたり、社会に敵対するような行動を長期に渡って引き起こしてしまうからです」

生身の人間が殺しあう接近戦をなるべく避け、より効率的な戦闘を追求すべきである。それが、アメリカ軍がベトナム戦争から学んだ大きな教訓だった。1970年代後半以降、アメリカ軍は情報技術とハイテク技術を駆使した新しい戦争のあり方を模索していく。

精密誘導兵器「トマホーク・ミサイル」。ベトナム戦争が終結した翌年の1976年に開発が始まった。敵のレーダーをかいくぐる爆撃機、夜間でも攻撃できる暗視装置付きのヘリコプター。遠く離れた場所から敵をたたく戦略が追求されていった。

(スケールズ元陸軍少将/訓練・教義司令部)
「軍の予算は、航空機や衛星、軍艦に回され、命がけで闘う歩兵のところには回ってこなくなりました。なぜなら、接近戦を中心とする戦闘をアメリカがすることはもはやないと考えられたからです。ヨーロッパでロシアと闘うような大きな戦争を想定していたのです」

ところが2001年の同時多発テロをきっかけに、アメリカは「テロとの戦い」の時代に突入する。

(ブッシュ大統領)
「我われが望んだ戦いではない。しかし目的は明確だ。大量破壊兵器を持つ無法者の政権が平和を脅かすのを許すことはできない」

そして2003年、イラクへの先制攻撃に踏み切ることになる。アメリカ軍はハイテク兵器による攻撃でイラク軍の指揮系統を分断、戦闘の主導権を握り、3週間でバグダッドを陥落させる。

しかしその後のイラク駐留は、混迷を極めていく。武装勢力がIED(簡易爆発装置)などを使ったゲリラ戦術を駆使して各地で激しく抵抗、アメリカ軍を翻弄する。

(スケールズ元陸軍少将/訓練・教義司令部)
「イラク人、アルカイダ、アフガニスタン人、タリバン。こうした勢力はみな、アメリカ軍に大規模な戦闘では対抗できないことはよくわかっています。そこでアメリカ軍を小さな戦争に引き込もうとするのです。接近戦において『死のゾーン』と呼ばれる50mの距離での戦闘では、GPS、無線通信、防弾チョッキなどのハイテク装備を除けば、いまだに彼らと我われの力は互角です。しかも敵は非常に高いモチベーションを持っており、死を待ち望む者さえいます。これは接近戦でものを言うのです」

現在、アメリカ軍の中で接近戦を想定した最も厳しい訓練を行っているのが、海兵隊である。カリフォルニア州サンディエゴにある新兵訓練所。

「殺せ、殺せ」(マットに膝蹴りを繰り返しながら、訓練兵が叫ぶ)。
迫兵戦の訓練が繰り返される。敵との戦闘に耐える強い精神と肉体を作るのが訓練の基本である。

2003年、当時18歳だった青年、アンドリュー・ライトもここで訓練を受けた。翌年イラクに派遣され、後にPTSDを発症することになる。

(ライト)
「基礎訓練は徹底した精神教育でした。とても辛いものですが、戦争に行く準備という点では要領を得たものです。戦場で生き残るためには、そのための精神構造が必要です。自分の感情を無視して、やるべきことをやらなければならないのです」

【アメリカ海兵隊 ペンデルトン基地】

イラクでの市街戦を想定して、海兵隊の基地の中に小さな街が造られている。イラクでの任務の1つ、街のパトロールの訓練。奇襲攻撃を仕掛けてくる武装勢力にとっさに対応することが求められる。

(訓練教官)
「こういう時はちゃんと決断しろ。撃つんなら撃て! そこの2人は援護しろ!」
「こいつと一緒に行け!」

イラクではいつ、どこで攻撃を受けるかわからない状況が続いている。

しかしベトナム戦争の頃に比べ、アメリカ兵の武器の使用には厳しい制約が課されている。

イラク戦争後、初めて全員に携帯が義務付けられた「交戦規定書」。兵士が守るべきルールが列記されている。
「民間人は保護しなければならない」「モスクなどを標的にしてはならない」「攻撃は敵対勢力と軍事目標に限る」

交戦してよい相手を厳密に定め、民間人の殺害など起きないよう、厳しく戒めている。

(訓練担当教官が兵士たちに規定書を読み上げ、兵士たちがノートに書き写す)
「殺害やレイプのような深刻な犯罪から民間人を保護する目的なら発砲してよい」

厳しい訓練の合間に兵士たちは、この交戦規定とその解釈を頭に叩き込むように指導を受ける。「殺せ」というプレッシャーと、「殺すな」というプレッシャー。兵士たちにかかる精神的負荷は高まる一方である。

(ジョセフ・サウス/訓練担当教官)
「現在、新しい海兵隊員に求められている判断力は、10年前、20年前に比べ、はるかに高度なものです。誰が敵で、誰が敵でないかを現地で見分けるのは兵士です。上官がその判断を下してやることはできません。上官にできるのは、ルール・ブックである交戦規定を渡し、若い海兵隊員が自分自身で判断を下せるように訓練することだけなのです」

交戦規定書の冒頭の一文。自己防衛が全てに優先する。結局、武器使用の判断は兵士1人ひとりに委ねられている。

(ライト)
「これがそのカードです。常に携帯が義務付けられています。交戦規定のことは常に頭にあります。しかし最終的には、自分の命が何らかのかたちで、直接の脅威にさらされていると感じるかどうかで決めてよいことになっています。人生は一度しかありません。アメリカに帰還する時に、棺桶の中にいるのと、手錠をかけられているのと、どちらかを選べと言われたら、手錠を選ぶ。それが私を含む海兵隊員の本音でした」

アンドリュー・ライトが訓練を終え、イラクに派遣されたのは2004年4月のことだった。その半年後、イラク中部の街ファルージャで、大規模な掃討作戦が行われる。

(基地で軍司令官が兵士たちに訓示する)
「この町は人殺しやならず者に乗っ取られている。イラク人たちのため、やつらの脅迫を打ち破るのだ!」

(ライト)
「あの時、我われは戦うことを熱望していました。戦うように訓練を受けていたからです。しかし不安もありました。それは自分が死んだり負傷することではなく、一般市民を傷つけなければならない状況に置かれることでした」
ファルージャには、1万を超えるアメリカ兵が投入され、武装勢力を包囲殲滅する作戦が実行された。

(戦闘中の将校)
「武器を持った連中がいるぞ。攻撃を開始しろ!」
アメリカ軍の激しい攻撃に対し、武装勢力は徹底抗戦を表明、あらゆる戦術を駆使して抵抗を続けた。

ライトは、部下と共にファルージャ市内に突入。1軒ずつ家宅捜査を行う。退去命令に従わない住民は「武装勢力」とみなし発砲してよい、そう命じられていた。ライトはある建物の屋上から、200mほど離れたところに男性を発見、ただちに戦闘態勢に入る。

(ライト)
「チームの仲間に『交戦可能な年齢の男性発見!』と大声で叫びました。男性であることはわかりました。狙えるのは頭だけだったので、撃ちました。命中しました。私は心の中でこう考えました。『この男はテロリストかもしれない。男は何をしているのかわからないが、撃つぞ』と。その時には、『敵を倒した』という達成感を覚えました」
この発砲は、命令で許された範囲内での発砲だった。すぐに交戦の結果を確認する。

(ライト)
「5、60歳の男性でした。お祈りをしていたのです。頭に命中したのはそのせいだと思いました。男性は杖を持っていました。辛いのは、自分が発砲した時に、その男性が本当は何をしていたのかを知る手掛かりがないことです。もしかしたら、男性は脚が不自由で街から避難できなかったのかもしれません。しかし私はそれを永遠に知ることができません」
男性は残っていた民間人だったのか、それとも武装勢力の一員だったのか。ライトには今もわからない。

(ライト)
「私は酒を大量に飲み始めました。自分の心の痛みと苦悩を切り抜けるためにアルコールが必要だったのです。アルコールを大量に飲まないと、夜、眠れなかったのです」
ライトはイラクでさらなる戦場の現実に直面する。2005年11月、イラク西部のハディーサで起きた虐殺事件。仲間を殺された海兵隊員が24人の民間人を殺害した。同じ部隊に所属していたライトは、この現場で遺体処理を担当、心にさらなる傷を負う。イラクに駐留したまま、症状を悪化させたライトは、睡眠薬で自殺を図った。

(ライト)
「気がつくと、ドイツのラムステイン米軍基地の精神病棟にいました。そこで入院中に、慢性のPTSDだと診断されました。しかし、PTSDだということを私はすぐに受け入れることはできませんでした。任務の期間がまだ残っていたので、最後までやり遂げようと考え、こう言いました。『私は全く大丈夫です』と。海兵隊で叩き込まれるのは、こういうことです。洗脳ではないにしても、部隊に貢献しなければならない。そのために犠牲を払わなければならないと教え込まれていたのです」

兵士が抱える心の闇。アメリカ社会にとっても見過せない大きな問題になっている。

今年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「戦争による荒廃」と題したキャンペーンを実施、殺人事件を犯したアフガニスタンやイラクからの帰還兵121人を実名と顔写真入りで公開した。そのほとんどが、カッとなったり、酒に酔っての衝動的な犯行。首などの致命箇所を狙ったり、何十回も刺したりして、確実に死に至らしめている。PTSDと思われる症状が多くみられ、治療を受けていなかった例がみられる。

(新聞記事)
「彼は怪物になってしまった」
事件は、兵士個人の責任とは言えないのではないか。兵士を戦場に送り込んだ国の責任を問う声も上がっている。
(新聞記事)
「ブッシュ大統領、息子を殺人マシンにしてくれてありがとう」

こうした現象は、社会に何をもたらすのか。アメリカの軍事政策に影響力を持つランド研究所が今年4月に発表した報告書(『戦争による見えない傷』2008年4月)では、アフガニスタンやイラクに派遣された164万人について、「戦死者、負傷者の数は過去に比べて圧倒的に少ない」と評価。しかし兵士たちの“見えない傷”が深刻化していると、強く警鐘を鳴らしている。PTSDなど精神的なトラブルを何らかのかたちで抱えている兵士たちの数は、帰還兵全体の2割に当たる30万人と推定。早急に62億ドル、日本円で6200億円以上の対策費が必要だと試算した。

(ロバート・リフトン/ニューヨーク市立大学名誉教授)
「戦争は、イラクの社会に計り知れない損失を与えました。しかしアメリカの社会が払った代償も大きいのです。政治家たちが考えているよりも、アメリカは広く、深く傷ついています。我われはそのことをもっとよく認識すべきなのです」

(スケールズ元陸軍少将/訓練・教義司令部)
「戦闘というのは強烈な体験ですから、心の備え、いわば予防接種をしてやる必要があります。1度では効きませんから、戦場に送り込むたびに何度でも事前の訓練をして、予防接種を打ち、戦場の現実に直面させ、慣れさせる必要があるわけです。一旦、任務が終れば、戦争に対する意識を解除して、まあ言ってみれば、逆洗脳してから、日常に連れ戻してやらなければなりません。その繰り返しが必要なのです」

(アンドリュー・ライト/元海兵隊員)
「人生において最も難しいことは、自分を許すことだと思います。これはほんとうに難しいことです。何か仕事に就こうと思いましたが、無理でした。今は仕事ができるとは思いません。やってみたのですが、数日で辞めてしまいました。自分にとって一番いいのは、大学に行き、ゆっくりでも確実に自分を民間人の生活に戻していくことだろうと思います」

【フォート・キャンベル陸軍基地】

ケンタッキー州、フォート・キャンベル陸軍基地。PTSDを治療するための施設の拡充が進められている。心を病む兵士に治療を施し、回復したら、軍務に復帰してもらうのが目的である。

基地の中に兵士の回復度を確かめるコーナーが設けられていた。このテストにパスすると、PTSDから回復し、前線に戻れるようになったと判断される。スクリーンに映し出されるのは、テロリストと民間人が混在するイラクの町の光景。テロリストだけを選んで射撃できるかが問われる。

兵士を戦場に送り込む国家と、過酷な戦場で心を病む兵士たちとの100年にわたるせめぎ合い。ブート・キャンプでは今日もまた、イラクに派遣される新兵の訓練が続いている。

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