Webコラム

日々の雑感 117:
「国家の論理」と個人の幸福追求・『兵士たちの悪夢』を見て

『兵士たちの悪夢』の内容については、NHKドキュメンタリー『兵士たちの悪夢』1をご覧ください。

2008年10月6日(月)

 ドキュメンタリー番組「兵士たちの悪夢」に、改めて痛感させられたことは、“国家の論理”と“個人の幸福追求”の絶望的な断絶とそのせめぎ合いである。番組の中でその現実がさまざまな実例を通して描かれている。
 アメリカ海兵隊ペンデルトン基地の訓練の様子を見せたのち、番組のナレーションは国家と個人のせめぎ合いを「最前線の過酷な環境に駆り出される兵士。兵士の力を最大限に引き出して戦いに勝利したい国家」と解説する。
 また第一次大戦でイギリス陸軍の最高司令官を務めたダグラス・ヘイグは、「陸軍全体が疲れ果てており、戦力の低下は著しい。前線で戦っている師団も兵員の増強を大至急必要としている」として、「兵士が敵を目の前にして臆病になる」のを防ぎ、その兵力を維持するために「見せしめを作る」ことの必要性を説く。その1例が、シェル・ショック(砲弾ショック)で塹壕に戻れなくなり「臆病罪」で処刑された二等兵の1兵士だった。国家の都合のために、若い1兵士が死刑に処され、残された若い妻と1人娘のその後の人生を破壊してしまう。
 同じく第一次大戦中、ドイツではシェル・ショック、戦争神経症が起きるメカニズムを議論するために集まったドイツ精神医学会の精神科医たちは、「その要因は戦争そのものではなく、患者本人の素質に求める」結論を出す。その理由を医学史研究者は「もしこの症状が戦争によって起きた症状であると認めてしまえば、国家は患者たちに補償や恩給を支払わなければなりません。医師たちはそのことに気付いていました。そこで『防波堤』を用意したのです」と解説する。精神科学会の重鎮も「我われ医師は、その行為すべてを一つの課題のために捧げるのだ。その課題とは我われの軍部、我われの国家に奉仕することである」と言い切っている。“国家の論理”を代弁する「御用学者」の典型である。彼らもまた「国家の利益」を守るために、戦争で傷ついた個人の生活の安定を奪い、生命さえも奪ってしまう。
 アメリカでも、第二次大戦中、アメリカ陸軍の要請で前線での兵士たちの心理状態を調査した歴史学者S・L・A・マーシャルが“国家の論理”を遂行していくために重要な役割を果す。彼は、戦場での兵士たちが直面する問題を「人は同胞たる人間を殺すことに対して、ふだんは気付かないが、内面に抵抗感を抱えている。その抵抗感ゆえに義務を免れる道さえあれば、何とか敵の生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に良心的兵役拒否者になるのである」と指摘した上で、そうならないために、「兵士の訓練を戦場の実態により近づけていくように」と提言する。その答えが「訓練をできるだけ現実に近い形で行い、兵士が戦場で目にする光景をすでに馴染みのあるものにしておく。そうすれば、どういう状況に直面しても、兵士が動揺することはなくなる」というものだった。それを実現化したものが、「人間の形をしたシルエット標的」だ。「敵はあの人型のようなもので、実際の戦場で自分が撃つのも、人間のように見える物体なのだ。訓練でいつも人型の物体に向かって練習していることを実行すればいいのだ」と、「心理的な抵抗を乗り越え」させえるのである。
 ベトナム戦争時も、訓練担当官が新兵に叩き込んだのは「条件づけ」だった。「新兵から民間人の部分を消し去り、兵士に変えるために行います。兵士の仕事は敵を殺すことであり、そのために命を落とすことを恐れるなと、徹底的に教え込みます」「標的を狙って撃つ訓練を何度も何度も繰り返しておけば、実際の戦闘でも、人間ではなく、ただの標的に向けて発砲していると考えるようになります。もう喜んで撃つようになります。起き上がった標的をバンと撃つ。その時はもう何も考えてはいません」と元訓練担当官は言い切る。
 さらに彼はこう付け加えるのだ。「まず敵は人間以下だと教えます。ベトナム人は銃を真っ直ぐ撃つことさえできないと教えたりしました。あいつらの目は細くてものがよく見えない。アメリカ人の丸い目とは違うんだとね。敵を殺させるには、相手が人間だという感覚を徹底的に奪っておくことが重要です。なぜなら敵も同じ人間だと感じた途端、殺せなくなるからです」
 そこには、「人を殺す」行為によって、その兵士に取り返しのつかない深い心の傷を負わせ、人生を破壊しまうことへの配慮のひとかけらもない。実際、ベトナム戦争時代、ソンミ村で村人25人を虐殺した黒人兵は、28年後にショットガンで自ら命を絶つまで、「無実の女性や子どもを撃ち殺した」罪悪感に責め苛まれ続けたが、命令でその殺人行為をその兵士に強制した軍や国家によって本人や家族に謝罪されることも補償されることもないのだ。

 国家が「国益」を大義名分にして戦争を合理的に遂行し勝利しようとすれば、こういう「論理」に立たざるを得ない。しかし、これは国民一人ひとり、個々人の人間性、尊厳、幸福とは絶対に相容れないものであり、むしろそれを破壊するものでしかない。「国益」といっても、それは国民の大多数の一般庶民、個々人の利益ではなく、国家の一部権力層、富裕層のための「利益」だろう。始末が悪いのは、権力者側は、その「国益」を守らせる動機づけに、庶民に対して「愛国心」という「大義名分」を持ち出すことだ。
 私がこのドキュメンタリー番組を見てふと脳裏に浮かんだのは、「君が代不起立」の運動を続ける根津公子さんのことだった。現在、根津さんのドキュメンタリー映像の編集を進めているが、根津さんが強調するのは「自分が反対しているのは『日の丸・君が代』そのものではなく、その“強制”なのだ」ということだ。
 昨年9月、都庁前での街頭デモで、マイクを握り締め、職場に向かう都庁の職員に向かって根津さんはこう訴えた。
 「君が代で起立をしなかったために、停職6ヵ月という重い処分です。こんなことが民主主義といわれる日本の社会で起こっていいのでしょうか。まさに思想弾圧であり、子どもたちにも1つの考えだけを押し付ける、そういった教育行政、学校を作ろうとしている。私はそのことを1人の教員として、譲ることができません。徹底的に反対し、行動していきます。今、この東京の教育を黙って見過してしまったなら、戦前のように上からの命令にそのまま従う子どもたちを大量に生産することになります。石原教育行政は、上からの命令にそのまま従う子、お国のために命を捧げる子を造ろうとしています。私は教員の1人として、そのことに反対しています。ですから、どんなに処分をされようとも、この君が代で起立をすることはできません」

 さらに9月13日、自宅での私のインタビューの中で、根津さんはこう言い切った。
 「日の丸・君が代についても、問題はあると思うけど、日の丸・君が代に象徴される上意下達、指示命令に従う、そういう社会のシステムに危機感を覚えているわけです。今こういう状態になっているんだということを私は子どもに伝えなければいけない責任があると思っている。そのためには、起立をする、あるいは休んでしまうという選択にはどうしてもならないんです。やはり私は身体ごと、『今の状態は危ないよ。上からの指示命令に黙って従うことは、恐ろしい明日を作ってしまう』ということを訴えなくてはいけないと思っている。それが今いちばん必要な教育だろうと思っています」

 つまり、根津さんたちの闘いを「日の丸・君が代」反対運動だと矮小化していはならないのだ。まさに国家と権力者による「上からの指示命令に黙って従う国民造り」、つまり“国家の論理”を個々人の幸福追求に優先させることを強いる動きに対して、抗う闘いなのである。
 そして私は1人のジャーナリストとして、人間としての尊厳・人権を守り、幸福を追求する個々人の側に立ち、それを蔑(ないがし)ろにし「国家の論理」を押し付ける動きに徹底的に抵抗することこそが自分の役割だと思う。

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