Webコラム

日々の雑感 168:
ラジ・スラーニの日本滞在(1)

2010年5月23日(日)

 20日午前、私はラジ・スラーニを出迎えるために成田空港へ向かった。2009年1月、ガザ攻撃の直後に取材で訪ねたとき、ラジはガザにいなかった。だから、2007年秋に私が取材でガザを訪ねたとき会ったきりだから、ほぼ3年ぶりの再会だった。
 私が空港まで出迎えに来ることを予想していなかったラジは、私をみつけて驚いていた。私たちは抱擁しあった。「アハラン・ワ・サハラン!(ようこそ、いらっしゃい)」。私はラジを抱きしめながらラジにたどたどしいアラビア語で伝えた。

 ラジの双子の子どもたちはエジプト・カイロの郊外でアメリカン・スクールに通っている。ラジの妻アマルも子どもたちと一緒だ。ガザ攻撃が始まる前から、ラジはその家族と共にカイロ郊外にいた。
 だからラジ自身は、あのガザ攻撃を直接体験していない。「ガザでこれまで起こった惨事はすべて現地で体験してきたが、こんな大惨事を現地で体験しなかったのは今回初めてだよ」とラジは私に言った。それは“人権活動家”としてラジがあれ以後ずっと引きずっている“悔い”であり、“後ろめたさ”だろう。
 身近な家族からはこんな緊急時に現地にいないラジに対して厳しい声も起こったことを、成田から東京へ向かうバスの中でラジは私に語った。多感な16歳の息子と娘が、テレビ・ニュースでガザ攻撃で多くの住民が殺傷されている映像を泣きださんばかりの表情で観続けていた。そして、父親のラジに叫んだ。「父さん、私たちの親戚や友だちや知り合いが殺されているのよ! 父さんは人権活動家でしょ? その父さんがなぜあの現場にいないの。裏切り者!」
 ラジにはいちばん痛い言葉だったにちがいない。「ガザへ今すぐにでも飛んでいきたい。しかし、国境が閉鎖され、それもままならない。自分の親族が、自分のスタッフが、そして同胞たちが猛爆撃にさらされている。なのに自分と家族だけが安全な場所にいる……」。そんな思いにラジは苦しんだにちがいない。
 しかし一方、ガザの外にいたからこそ、ラジは“ガザ住民のスポークスマン”として役割りを十二分に果たすことができた。ガザ攻撃中、そしてその後も、ラジはヨーロッパなど海外を飛び回り、現地のパレスチナ人権センターのスタッフたちから刻々と伝えられるガザの惨状を訴えて回った。ラジの海外での知名度、そのアピール力、そして何よりもそうせざるにいられない“内から衝き動かす力”において、彼に勝る“ガザ住民のスポークスマン”はいなかった。またそうすることが、自分がこんな大惨事を同胞と共有していない“後ろめたさ”“悔しさ”を振り払うために、当時のラジにできる唯一の行動だったにちがいない。
 ラジにとって、意外だったのが子どもたちのガザ攻撃に対する反応だった。ガザ攻撃の映像に居ても立ってもいられず、「ガザに今すぐ戻りたい! 攻撃に苦しんでいるあのガザの人たちといっしょにいたい!」とラジに訴えたというのだ。いつもはおとなしい息子と娘が、自分たちが通うアメリカン・スクールでガザ攻撃に抗議し惨状を訴える運動を始めた。ガザで10代半ばまで過ごしてきた子どもたちのなかに、間違いなく“ガザ人”として“血”が流れていたのだ。そのことを私に語るラジは、とても誇らしげだった。
 数年前、ラジ家を訪ねたとき、ラジと奥さんから相談を受けたことがある。当時、ラジ夫妻は双子の子どもたちをガザ市のアメリカン・スクールに通わせるかどうか言い争っていた。「ドイはどう思う?」と聞かれた私は、否定的な意見を述べた。
 「ラジ、以前、あなたが自分の少年時代を私に語ったとき、『自分が通う学校の同級生たちは大半が難民キャンプ出身の子どもたちで、彼らの貧困と劣悪な生活環境を目の当たりにすることで“パレスチナ人”の歴史と現状を肌で知った』と教えてくれたね。私は、あなたの子どもたちにも、そのように“パレスチナ人”になる体験が必要だと思うよ。もし、自治政府の高官や金持ちのビジネスマンの子どもたちだけが通う学校で、例外的に恵まれた特権階級の子どもたちとばかりつきあって、“難民”や“庶民”の生活や心情に触れる機会がないと、“人権活動家ラジ・スラーニの子ども”にふさわしい“ガザ人”には育たないのではと心配だよ」
 結局、ガザの封鎖などで生活環境が悪化しイスラエルの攻撃も激しくなった数年前から、子どもたちはカイロ郊外の街でアメリカン・スクールに通い始めた。私は子どもたちが“ガザ・パレスチナ人の庶民感覚”を失ってしまうのではと懸念した。
 しかしラジの子どもたちは、“ガザのパレスチナ人”だった。10数年のガザ生活のなかで、皮膚感覚として習得していたのだ。ラジは、そのことがなによりもうれしかったのだ。

 カイロ郊外で暮らし始めた家族と過ごすために、これまでガザに根付いていたラジが、片方の軸足をエジプトに移しガザを離れて暮らすことが多くなったことを、私は正直言って懸念していた。「ガザ攻撃中のガザ不在」に象徴されるように、ラジ自身が“ガザの人権活動家”でなくなってしまうのではないかと。
 以前、国連の人権部門の責任者としてベイルートでの仕事をオファーされたとラジから聞かされたとき、私は「もしそれを受けてベイルートに移り住んだら、もう“ラジ・スラーニ”でなくなる」と強く反対した。私は彼が“ラジ・スラーニ”であり続けるためには、ガザに根付いているべきだと考えている。それは私の願いであるだけではなく、これまで「ガザの現場から人権侵害の実態を世界に向けて発信し続けるラジ・スラーニ」に深い敬意と友情を持ってきた世界のラジの友人たちの思いでもあるはずだ。
 私はラジに言った。「ラジ、“ガザ”はあなたを必要としているんだよ」
 するとラジがこう答えた。「いや、私が“ガザ”を必要としているんだ」

 子どもたちはあと2年で高校を卒業し、大学に入学する。それがどこなのかわからないが、いずれにしろ、そのときは子どもが親元を巣立つ。そのときラジ夫妻は、再び生活の場を完全にガザに移すつもりでいる。

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