Webコラム

日々の雑感 169:
イスラエルによるガザ支援船攻撃への見解

2010年6月3日(木)

 「1年半前のガザ攻撃よりさらに深刻なイスラエルの失敗であり、前者以上の代価と痛みを伴う結果になる」──イスラエルの有力紙『ハアレツ』で、ある記者はこの事件についてそう評した。アミラ・ハスと並んで、イスラエルの占領を痛烈に批判し続ける著名な『ハアレツ』紙の記者ギデオン・レビ記者は事件の翌日、「ミニ・カスト・リード作戦(2008年−09年のガザ攻撃)」と題した記事の中でこう書いている。

「再び、イスラエルは、これまで予想もしなかった深刻な外交上の代価を支払うことになる。イスラエルのプロパガンダ機構は、洗脳されたイスラエル人のみをかろうじて説得できるだけだ。そしてまた、だれも『これは何のためだったのか。なぜ我われの兵士たちは、パイプを持った者たちの罠にはまってしまったのか。いったいこの事態から我われは何を得たのか』と問いかけることもしないのだ。
 もしカスト・リード作戦が、世界の我われを見る目の変化の転機だったとすれば、今回の作戦は、現在も明らかに上映され続けているホラー映画の第2弾だ。イスラエルは昨日、第1弾の映画から何も学んでいなかったことを証明してしまった。昨日の事態は防ぐことができたし、そうすべきだった。支援船は通行を許可され封鎖は終結されるべきだったのだ。その封鎖解除はずっと以前に行われているべきだった。封鎖が続いたこの4年間、ハマスの勢力は衰えることもなく、(ハマスに拘束されているイスラエル兵)ギラット・シャリットが解放されることもなかった。つまり(封鎖によって)何1つ成果を得られなかったのだ。
 そしてその代わりに我われは何を得たのか。イスラエルは急速に、完全な孤立状態に陥ろうとしている。その状態の中で知識人たちに完全にそっぽを向き、平和活動家たちを銃撃し、ガザを外の世界から切り離し、そして今、自らが国際的な封鎖状態に中にいるのだ。さらに昨日、これは初めてではないが、イスラエルはますます(国際社会という)母船との関係を断ち切って離れていき、世界との接触を失っていくように見える。世界はイスラエルのこのような行動を受け入れず、その動機など理解はしないのだ」

 今回の事件で、イスラエルが被る「外交上の代価」の中でも最も深刻なのは、トルコとの関係だろう。イスラエルにとってトルコはイスラム圏諸国の中で唯一友好関係を保ち、イスラエルにとってイスラム圏への“窓口”また“仲介役”となってきた重要な国であった。そのトルコとの関係は前回のガザ攻撃で悪化したが、今回の事態は、その悪化を決定的なものにした。支援船の多くはトルコから出港し、多くのトルコ人が乗船していた。イスラエル軍が急襲した主船「マビ・マルマラ号」もトルコ国旗を掲げた客船で、死傷した活動家の多くがトルコ人だった。事件直後の国連安保理の緊急会議でも、トルコ代表は「国家テロ」という激しい言葉でイスラエルの行動を非難した。『ハアレツ』紙もトルコ政府との関係悪化を「おそらく最も不吉で、徐々に進む、愚かで集団自殺的な行進」と表現した。

 国際支援団体「フリー・ガザ・ムーブメント」によるガザ支援船の主な目的はもちろん1万トン近い支援物資を封鎖下のガザに届けることではあるが、彼らの本音の目的はもっと深いところにあると私は観ている。彼らもイスラエル海軍が支援船のガザ入りを阻止し、拿捕することは十分予想し、その準備もしていたはずだ。むしろ拿捕され国際的なニュースになることも、彼らにとって重要な目的だったと私は思う。
 ガザ攻撃「終結」以来、ガザのその後の状況に関するニュースは国際報道の表舞台から消え、攻撃終結以後も続く過酷な“封鎖”の実態はまったく無視され続けてきた。そんな状況のなかで、自分たちの支援船がイスラエル当局によって拿捕され国際ニュースになることで、「ガザでは、武力による攻撃は下火になっても、 “封鎖”という深刻な“構造的な暴力”が延々と続いているという現実に国際社会の目を再び向けさせたいという強い決意があったにちがいないのだ。
 だから、今回の事件は、9人の人命と数十人の負傷という深刻な代価を払うことになったが、これほどの全世界に激震を与えるニュースとなったことで、この支援船の“使命”は十二分に果たせた。イスラエル軍は過剰反応することで、皮肉にもその効果を最大限に引き出す「引き立て役」を演じたことになる。公海上で、丸腰の人道支援活動たちの船を急襲し多数の死傷者を出すという、誰が観ても信じがたいような愚かな犯罪行為をやってのけたのだから。

 ネタニヤフ首相や各国に散っているイスラエル大使たちがやっきになって、「暴徒に襲われた兵士たちの正当防衛のためだった」と弁明をしているが、そもそも公海上で丸腰の人道支援活動たちの船を武装兵士が急襲すること自体が理不尽で国際法に違反する重大な犯罪であることは誰の目にも明らかだ。その弁明は誰の耳にも「苦し紛れの陳腐な言い訳」にしか聞こえず、まったく説得力がない。

 この重大な事態に、私たちは何をすべきなのだろうか。
 私は、3年ほど前、ビルマ民衆による民主化デモの最中に起こった日本人ジャーナリスト・長井健司さんの射殺事件を思い起こす。日本人ジャーナリストが射殺されるという事件によって、日本のメディアは一斉に“ビルマ”に目を向けた。いや正確に言えば、「日本人ジャーナリストの死」という事件に群がったのだが。それでも、それに付随するかたちで“背景”として“ビルマ”の現状も一部伝えられ、多くの日本人がその独裁政権下の過酷なビルマの現状の一片を知る結果となった。もし長井さんの死がなければ、“ビルマ”の現状に触れる機会のなかった日本人は少なくなかったはずだ。

 しかし、その後、ますます“長井さんの死”が日本での報道の中心となり、“ビルマ”の民主化デモのその後はほとんど伝えられなくなった。象徴的な一例が、NHKニュースでも長井さんの葬儀がトップニュースとして報道される事態だった。一方ビルマでは、民主化デモの先頭に立っていた僧侶たちへの当局による弾圧の激しさがピークに達していた時期だったのが、その現実は「長井さん報道」の陰に隠れて、ほとんど報道されなかった。
 長井さんは、日本人に“ビルマ”に目を向けさせる“人柱”の役割を果たしたと私は思う。だから長井さんがその死によって「英雄」に祭り上げられ、報道がそれだけに集中し、“ビルマ”の現状の報道が疎かになるとすれば本末転倒である。それは、“長井さんの死”を生かすことにはならないはずだ。

 今回の事態でも、人道活動家9人の死と数十人の負傷への国際非難が集中し、彼らがそこまで犠牲を払って国際社会に訴えようとした“ガザ封鎖”という“占領”の実態へ国際社会の目を向けさせ、これを解除する方向へと国際世論を高めえないとすれば、“人柱”となった彼らの犠牲を無駄にしてしまうことになる。私たちが彼らから引きつがなければならないのは、“ガザ封鎖”の現実を国際社会に訴え、状況を変える空気を作っていくことである。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp