Webコラム

日々の雑感 180:
“伝えること”と“生きること

2010年7月8日(木)

 森口豁(もりぐち・かつ)氏の名前を知ったのは、NHKの友人、七沢潔(ななさわ・きよし)氏からだった。七沢氏はかつて沖縄のドキュメンタリーの名作を何本も制作してきたディレクターで、現在、NHK放送文化研究所で、これまでNHKや民放で制作されてきた沖縄に関するドキュメンタリー番組を調査・研究している。私のドキュメンタリー映画『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』の第2部『侵蝕─イスラエル化されるパレスチナ』を観た彼が、私がパレスチナを通して追ってきた“占領”は沖縄での米軍による“占領”と同根にある、その沖縄を取材してみたらと薦めてくれた。その手本として彼が挙げたのが森口豁氏だった。私には初めて聞く名前だった。しかし、後に沖縄の知人や、“オキナワ”に深く関わっている人に「森口豁さんって、知ってる?」と訊くと、決まったように「もちろん、知っているよ」という言葉が返ってくるのだ。
 6月中旬、東京都内のある映画館で、その森口氏と七沢氏の対談が行われた。退院直後で、夜、東京まで出かけていく体力と気力がなかったので、後にその記録映像を見せてもらった。
 まず森口氏の経歴に惹かれた。高校時代、沖縄出身で、後に「ウルトラマン」シリーズの企画・脚本を手掛け名を馳せた金城哲夫氏と出会い、彼の誘いで仲間たちと「親善使節団」を結成し初めて沖縄を訪ねる。沖縄がまだアメリカの統治下にあった1950年代である。「使節団」は2週間、トラックの荷台に揺られながら沖縄各地の高校を回り、同世代の沖縄の高校生たちと交流した。ある高校生が森口氏ら日本の高校生たちに訴えた。
 「僕の回りに“犬”(アメリカのスパイ)がいるかもしれない。しかし今、伝えないと君たちは知らずに本土へ帰ってしまう。だから敢えて訴えるんだ。『自分たちは日本へ帰りたんだ!』」
 「この旅で僕は沖縄を知っちゃった。もう目をそらすことができなくなった。自分をそういう立場に追いやった」──森口氏はその沖縄との出会いをそう表現した。
 その後、森口氏は進学した大学を中退し、1959年、沖縄へ向かう。『琉球新報』の記者になったのは、当時のアメリカ統治下の沖縄に本土の日本人が定住するには仕事に着く必要があったからだという。その後、新聞記者として、また後には日本テレビの沖縄特派員として沖縄で暮らすことになる。
 森口氏はこれまで、『ひめゆり戦史 いま問う国家と教育』『島分け 沖縄鳩間島哀史』などを50本を超えるテレビ・ドキュメンタリーを制作し、テレビ大賞優秀個人賞など数々の賞を受賞している。その森口氏の創作活動、ジャーナリスト活動の根本にある姿勢は、「ヤマトンチュ(本土の日本人)はウチナーンチュ(沖縄の住民)に対して“加害者”であり、自分もその1人である。そのヤマトンチュの1人として、ウチナーンチュにどう償うか」という自問である。
 森口氏のその思いが表出した作品の1つが『ひめゆり戦史 いま問う国家と教育』である。1979年に日本テレビのドキュメンタリー番組として放映されたこの作品は、前半で、33回忌を過ぎてやっと重い口を開いたひめゆり部隊の生存者たちの証言を伝える。「何十年も経ってからヌケヌケとやってきてマイクを向ける──それが辛かった。それはメディアに関わる者として伝えたいという気持ち、その一方で、なんと罪なことをしているんだという自責の念の葛藤でした」。当時の自分の心情を森口氏はそう語った。
 元「ひめゆり部隊」生存者の証言は、後に柴田昌平監督のドキュメンタリー映画『ひめゆり』でも詳細に伝えられている。その映画を見ていた私には、その証言は初めて知る内容ではなかった(もちろん、番組『ひめゆり戦史』の制作がその映画の制作よりも20数年の先であるが)。しかし、「ではだれが女学生たちをあの惨事に追いやったのか」を追及する番組の後半に、私は圧倒された。その命令を下したのは誰だったのか──その疑問を追って森口氏は、本土で今なお生存する女学校の元校長や当時の参謀本部の将校を訪ね歩く。そこで視聴者が目の当たりにするのは、責任を他に押しつけ、自らの責任を回避しようとする本土の日本人の卑劣で醜悪な姿である。映像はまた、元校長の現在の住まいの一片を映し出し、「ひめゆり部隊」の清純な少女たちをあの惨事に追いやったヤマトンチュの、戦後の「満たされた平穏な暮らしぶり」を観る者の目に焼きつける。そのようにして、前半の証言で再現される「ひめゆり部隊」の少女たちの悲惨な最期の現場との絶望的な断層を、冷酷なまでに映し出してみせるのだ。それは沖縄の住民に基地を押し付け、「安全だけをいただいて」ぬくぬくと暮らす今の私たち本土の日本人の姿そのものである。「ヤマトンチュはウチナーンチュに対して“加害者”である」──このドキュメンタリーを通して本土の視聴者に向かって発する森口氏の“声なき叫び”が私の胸を突き刺す。

 森口氏はヤマトンチュでありながら、長く沖縄に住み着き、沖縄の人と彼らが抱え込んでいる問題を伝える仕事を通して、沖縄人の心に“寄り添い”、その「気持ちを背負う」ようになったのだと私は思う。そのことが象徴的に伝わってきたのは、森口氏が普天間基地の移転問題と鳩山前首相について言及したときだ。
 森口氏は、「少なくとも県外に」という言葉を信じ、去年の総選挙で民主党に投票までした。その責任者、鳩山前首相が「結局、辺野古に」と告げるために沖縄を再訪したとき、森口氏は現場にいた。期待した政党とそのリーダーによる「平成の琉球処分」の歴史的な瞬間を現地で立ち会うことになった森口氏は、「騙す者より、騙された者が悪い」という自分の番組の登場人物の言葉を引用して自嘲し、「どんな顔を引っ提げて、ウチナーンチュの前に出れるんだ。もう沖縄の仲間とは会えない」とまで思いつめる。
 そして森口氏は、自分の番組に登場する沖縄の青年のことを語る。
 戦車が行き交う基地の村に育ったその青年は、職を求めて本土に渡った。そしてある日、国会の正門にオートバイで「激突死」する。遺書はなかった。その青年を例に挙げながら森口氏は、ウチナーンチュは怒りを外に向けるのではなく内に向ける、それが「肝苦り(ちむぐり)」という言葉に象徴されていると語った。
 「沖縄の人は『かわいそう』と人を突き放した言い方はしない。相手の悲しみを引き受け、心が痛む。自分もいっしょに痛むんです。沖縄の人は他人を傷つけたりできない。だから自分を傷つけるしかない……」
 そう語りながら、森口氏は言葉を詰まらせた。沈黙が続いた。森口氏は泣いていた。
 その一瞬、森口氏の脳裏には、沖縄と出会って以来、知り合い、関わり合い、感動をもらったたくさんのウチナーンチュの顔が次々と蘇って過ぎり、その出会いによって“育てられた”自分の半生に思いを馳せていたにちがいない。

私は、“伝える”という営為が、“自分が生きること”と乖離していないジャーナリストに強く惹かれる。それは、「『ジャーナリスト』として上から俯瞰的に見下す『観察者』の目ではなく、自分自身に引き寄せ、“自己”という“フィルター”を通した後に、それが“言葉”として紡がれている」〔「日々の雑感」6月17日「『治りませんように』(斎藤道雄著)を読んで」〕ジャーナリストである。そうでないと、観る人、聞く人、読む人の心に届かせ衝き動かす“伝え方”はできないとさえ私は思っている。
 森口豁氏の語りと作品に、私は、そんな“本物のジャーナリスト”の姿を見た。

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