Webコラム

日々の雑感 185:
弱者が強者に譲ることが『和平』か

2010年9月5日

 またパレスチナ・イスラエルの「和平交渉」ニュースが新聞の国際面を飾っている。私は、敵対するイスラエルのラビン首相とパレスチナ側のアラファトPLO議長がホワイトハウスで握手した1993年秋の「オスロ合意」の報道を思い起こす。「中東和平」「平和」の言葉がメディア報道に踊った。だがそれはパレスチナ人には「占領の合法化と固定化」でしかなかった。民衆の怒りは、7年後、第2次インティファーダ(民衆蜂起)として爆発した。今日の混沌としたパレスチナ情勢は「オスロ合意」の結末ともいえる。
 私たちが「和平」「共存」というとき、その言葉に幻想を抱くのではなく、強者の論理を押しつけられる弱者にどういう状況の改善をもたらすのかを見極める必要がある。例えば和平交渉の目標とされる「2国家共存による和平」。ヨルダン川西岸を取材すれば、ユダヤ人入植地とそれを結ぶ幹線道路で、パレスチナ人地区は分断され、土地と水資源は奪われ、もうすでに国家の経済的基盤は失われつつあることは一目瞭然だ。
 パレスチナ問題の根源はパレスチナ人の恒常的な“難民化”と“占領”という“構造”にこそある。それと本気で向かい合い取り組まない限り、「和平」は机上の空論でしかない。ましてやある社会学者が説くように(「ニッポン人・脈・記」(朝日新聞9月2日夕刊)、「対立する民族」の「若い世代が互いのことを具体的に知るチャンスを増やす」ことで「憎しみや復讐の感情」に支配される関係を解体できると考えるのは、ナイーブな「平和」論でしかないように私には思える。個人レベルの話ではなく、“構造”の問題だからだ。南アフリカのように、形の上だけでも「アパルトヘイト」がすでに解消された状況の中で、両者が「フォーギブネス(ゆるし)し合うのは可能かもしれない。しかしパレスチナのように今なお“難民化”と“占領”が厳然と続くなかで、現に踏みつけている強者が、踏みつけられている弱者に「ゆるし」を求めるなど筋違いである。そのように問題を個人と個人の「ゆるしあい」による「和平」へと問題をすり替えることは、問題の根源である“構造”から私たちの目を背けさせることになりかねない。
 難民にした側とされた側、占領する側とされる側があたかも対等の立場であるかのように「譲歩しあう」「ゆるしあう」ことが「和平」だと説く人たちに私はこう提案したい。1時間でもいい、占領地のイスラエル軍検問所の前に立ってみるがいい。その占領の実態の一片を目の当たりにしても、私たちは占領される側に「ゆるし」を求められるのか。難民化され占領され、もう譲るものもない人たちに、これ以上の「譲歩」を私たちは求めるのか。そんな要求をする私たちは、パレスチナ人にとって一体、何様なのか。

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