Webコラム

日々の雑感 200:
帰国しない決断

2011年1月21日(金)米国上映ツアー

 予想はしていたものの、現実に父の死に直面したとき、私はやはり冷静ではいられなかった。これからどう行動すべきか冷静に考える心の余裕を失ない、ただ呆然となった。とにかくこの混乱した状態から抜け出すために、狭いインターネットカフェから出なければと思った。ここではもう何も考えらなかった。私は近くのUCバークレイ(カルフォルニア大学バークレイ校)のキャンパスに向かって歩いた。森林公園のように深い緑に囲まれた広大なこのキャンパスを当てもなく歩いた。私にはここは、甘酸っぱく、ほろ苦い思い出が詰まった場所だった。1987年から1989年にかけて、私はこのキャンパスを何度も歩き回った。当時この大学の修士課程で学ぶ親しい友人の寄宿舎を基地に、私は当時、ロサンジェルス、ニューヨーク、ワシントン、シカゴなど各地を訪ねアメリカで暮らすパレスチナ人とユダヤ人の取材を続けていた。累計すれば9カ月に及ぶその長いアメリカ取材の結果は、拙著『アメリカのユダヤ人』(1991年/岩波新書)と『アメリカのパレスチナ人』(1991年/すずさわ書店)として結実した。
 ジャーナリストとして生きる道を志しながらも、その自信もなく、展望のない将来への不安に震えていた。その一方で「このままでは終わらないぞ。俺にしかできない仕事を成し遂げ、残さずに置くものか」という若い野心が、不安に押し潰されそうになる弱い自分をかろうじて支えていた。そんな、胸が締め付けられるような思い出が詰まったキャンパスの森林の中を今、当てもなく、さ迷った。歩いていないと何も考えられない気がした。20数年前さまざまな悩みや思いを抱えながら歩いた場所を、今度は“父の死”という現実を受け止めようともがきながら、歩きまわっている。不思議な縁のあるキャンパスである。
 私は決断を迫られていた。父の葬儀のためにすぐに帰国すべきか、それとも、感情を振り切ってこのまま上映ツアーを続けるべきか、と。今の衝動のまま帰国することも考えてみた。しかしその直後のことを考えると、危ないと思った。父の死の衝撃と、アメリカでの映画上映の展望を失ったと実感したときの絶望感のダブルパンチに、私は自分を支えられないような気がした。それに今上映ツアーを中断するくらいなら、熊本で辛い決断をする必要はなかったし、そのまま日本に残り、父を看取るために待機していればよかったのだ。上映ツアー中の父の死を覚悟し渡米した以上、それを敢行するしかない。たとえきょうだいや親族に非常識な行動を責められようと、今の私にはそれが取るべき道なのだ。もう迷うまい──UCバークレイのキャンパスの中にそびえる時計台の階段にじっと座りながら、私は遂にそう決断した。見上げると、キャンパスの向うの西の空とそれを映し出すサンフランシスコ湾は夕焼けに赤と橙色に染まり、それを背景に、湾にかかるゴールデンゲートブリッジが黒いシルエットとなって浮かび上がった。その美しさが心に染みた。父の死を知り、それでも帰国しないと決断した瞬間に見るこの美しい光景と、その時の自分の心情を“記憶”にだけでなく、映像の“記録”として留めておこうと思った。カメラを取り出し、200ミリの望遠で、夕焼けに映えるゴールデンゲートブリッジに向けて何度もシャッターを切った。それは迷い、もがいた後の決断を自分の中に刻印するための“儀式”のようにも思えた。

 その夜、日本人の知人の家から妻・幸美の携帯に電話した。仕事中だったのだろう、日本時間の昼休みになってやっと彼女が電話に出た。私の声に、幸美はかける言葉に詰まって涙声になった。私は平静を装って事務的に、「俺は帰国せず、このままアメリカでの上映ツアーの予定をこなすから、そのことを兄貴と姉貴に伝えて。そして俺の代わりに佐賀へ行って葬式に出てくれないか」と告げた。「わかってる。そのつもりで準備してる。今夜には佐賀に着いてるから」と平静に答えた幸美だったが、最後に「がんばって……」と言いながら涙声になった。私は精一杯、平静を装って「大丈夫だから」とだけ答えた。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp