Webコラム

日々の雑感 215:
遂に、車の所有者になる

2011年7月3日(日)

 「我が家には“車”が2台ある」と言うと、相手は決まって信じられないという顔をした。私の貧乏暮らしを知る知人なら、なおさらだ。私をよく知らない人は「わあ、リッチ!」と素直に驚く。でも嘘ではない。我が家には自転車という“車”が2台あるのだから。
 我が家を訪ねた人がまず驚くのが、入口にある、ゆうに本物の車2台は入る、高さ3メートルもある車庫の大きさだ。その片隅を2台の自転車が占めているだけで、あとは広々とした空間になっていた。「もったいない」と訪問者たちにいつも言われるので、私は「将来、連れ合いに家を追いだされたとき、ここにテントを張って暮らすんです」と答えていた。正直言うと、今のジャーナリスト業を廃業したら、ここに小さな学習塾か雑貨屋でも開こうかと半分本気で考えていた。
 しかし、今、その車庫には本物の車が納まっている。他人の車ではなく、私自身が乗る車である。「ひけしか」──私が生まれ育った佐賀の方言で「臆病」という意味だ。小学生高学年になっても水を怖がって泳げず、村の他の子供たちのように、度胸試しの川の上の鉄橋の線路歩きもできず泣きべそをかいていた私は、いつもそう言われ続けてきた。それは大人になっても一向に改善されなかった。車の運転もそうである。20数年前、止まっているバスに接触事故を起こして以来、「これ以上、世間に迷惑をかけてはいけない」と自分に言い訳をして、ぴたりと運転を止めた。都会で暮らすようになってからは車の必要性も感じなかったし、海外での取材でも車を運転する通訳を雇うか、タクシーを使えば不自由することもなかった。
 しかし、3月11日の大震災以降の取材は、そうも言っていられなくなり、奮起して再度、車の運転に挑戦した。その経緯は「日々の雑感」(5月6日)「飯舘村に“パレスチナ”を見た」に書いた通りである。
 福島・飯舘村の当初の取材ではレンタカーや知人の車を借りて運転していたが、取材が長期化するにつれて、いつまでの他人の好意に甘えてばかりいられなくなった。私と連れ合いは一大決心をして5月中旬、遂に車を買った。と言っても、もちろん新車ではない。連れ合いの大阪の友人夫妻を通して、10年前の車で5万7千キロしか走っていない日産のバンを30万円という格安で手に入れたのである。以来、まだ1ヵ月半ほどしか経っていないが、すでに片道300キロ近い福島・飯舘村まで3往復した。不器用な私の運転が不安でしかたがない連れ合いは、ホームセンターで「運転初心者」であることを示す「若葉マーク」を2枚買ってきて、車の前後に貼りつけた。「この車の持ち主は不器用で運転が下手ですから、どうかご注意ください」と周囲の運転手たちに注意を喚起するためである。本人に安全を守る技量が欠落しているなら、他人に守ってもらおうという“他力本願”である。そのお陰だろうか、首都高速や東北道の高速道路を走るとき、周囲の車が私の車を避けるように遠ざかっていく。そう言えば、首都高速や東北道の高速道路で若葉マークを付けている車が走っているのを見たことがない。たった3日間の教習所通いからまもない“初心者”の私が、高速道路とりわけ、熟練者でも怖がる首都高速を走るのだから、「無謀」と友人たちが呆れるのも無理もない。実際、首都高速を走るときは、文字通り、命がけである。やっとの思いで我が家に辿りつくと、フラフラする。血圧を測ると、160位まで跳ね上がっている。
 飯舘村を走る私の車には「若葉マーク」と共に「報道」という貼り紙まで付いている。多くの村人が避難した飯舘村では、福島ナンバー以外の車は警戒される。留守を狙う泥棒と疑われるからだ。村の留守宅からの盗難を防ぐために、村人自らが「見守り隊」を結成して24時間体制で村を巡回しているし、警備の応援にかけつけた警視庁や他県の県警のパトカーも走り回っている。「横浜」ナンバーの車で、ヒゲを生やし目つきがきつく、「外国人」のような顔つきをしている私はすぐに疑われてしまうので、「報道」という貼り紙を車の前後に貼った。しかし、「報道」の車に「青葉マーク」というアンバランスの組み合わせが、かえって疑われるのか、私は何度もパトカーに呼び止められてしまう。ぼやく私を、意地の悪い友人が「それなら、ついでに老人であることを示す『枯葉マーク』も一緒に付けたら」とからかう。
 連れ合いを乗せて横浜市内を走っているとき、彼女がしみじみと言った。
 「しゃれた横浜市内を車で走る土井敏邦なんて、昔からあなたを知っている人は誰も想像できないでしょうね」。パレスチナのような地域を歩き回ってきた私には泥臭いイメージが付きまとい、都会を車で颯爽と走るしゃれたイメージとは結びつかないというのだ。私自身、3ヵ月前まではそんな自分を想像もしていなかった。不器用な私を小さい頃から見てきた秋田・大潟村に住む4歳年上の姉は、私が電話で、車を自分で運転して福島・飯舘村へ取材で通っていると話しても、信じようとしなかった。「じゃあ、今度、秋田まで車で行って見せるよ」と言うと、「止めて。お願いだから新幹線にして」と懇願される始末である。

 車を運転するようになって行動範囲と行動の自由度が広がり、“世界”が広がったような気がする。それと同時に、「多くの人たちができる運転が、なぜ自分にはできないのか」という、これまでずっと心の奥底に抱いてきた劣等感からやっと解放されて、「やっと人並みになれた」と安堵できた。しかし「ひけしか」性格は変わらない。福島の取材を終えて横浜に帰ってきて、しばらくハンドルを握らないと、運転が怖くなる。それを解消するために、1つ“仕事”を自分に課すことにした。車で10分ほどの距離にある小学校に勤務する連れ合いを、毎朝、車で送る“サービス”である。これなら、往復20分ほどで負担も少なく、運転のリハビリになるし、また「妻に献身的な夫」という“いい顔”もできる。さらに、車購入の費用の半分を負担してくれた連れ合いへの、せめてもの“恩返し”もできる。一石三鳥である。

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