Webコラム

日々の雑感 236:
若き特派員の死
(追悼 テレビ朝日 野村能久さん)

2011年10月24日(月)

 10月21日(金)の夜、NHKの「ニュースウォッチ9」を観ているときだった。突然、「速報」として大越キャスターが、「カダフィ大佐が死亡したリビアのシルトへ取材に向かっていたテレビ朝日の取材班が交通事故に遭い、死傷者が出た模様」と伝えた。「あの野村能久(のむら よしひさ)さんでは?」という不安がよぎった。その直後、読売新聞が電子版で「テレビ朝日カイロ特派員が死亡」と伝えた。それでも「誤報かもしれない。そうあってほしい」と願った。しかし、その直後、テレビ朝日「報道ステーション」で古舘キャスターが正式に「野村能久・特派員が死亡した」ことを伝えた。私は悪夢を見ている気がした。
 野村さんとは3週間ほど前、メールのやり取りをしたばかりだった。近々カイロを訪ねる計画を立てていた私は、野村さんに現地の情報を教えてもらうためメールを送ったのだ。多忙だったはずなのに、彼はすぐに返信し、私に詳しい情報を伝えてくれた。彼とカイロで久しぶりに再会できると楽しみにしていた。その野村さんが急死したのだ。

 1年半ほど前だったろうか。私たちが主催したパレスチナの報告会を聞きにきてくれた野村さんは会の直後、会場で私に声をかけ、「今度、特派員としてカイロへ行きます。パレスチナのこと、いろいろ教えてください」と言った。「現地で会えるかもしれませんね。こちらこそ現地の様子を教えてください。よろしくお願いします」と私は応えた。
 その野村さんから最初のメールが届いたのは、昨年の8月だった。

土井様

日本は蒸し暑い日が続いていると思いますが、いかがお過ごしでしょうか?

ご無沙汰しております。テレビ朝日・野村です。

7月中旬よりカイロに赴任し、特派員生活が始まりました。今年5月に来日していたラジ・スラーニ氏と名刺交換し、その際教えていただいた電話番号に、何度か電話してみたのですが、一向に繋がりません。カイロにいらっしゃるときしか繋がらない番号なんでしょうか? それとも番号が変わったのでしょうか? もしお分かりになるようでしたら、教えてください。

赴任中には、色々と企画し、ガザに行ければと思っています。そのときはまた色々とご指導ください。今後ともよろしくお願いします。

テレビ朝日・野村能久
2010年8月2日

 それから1ヵ月後、今度はガザからメールが届いた。

土井様

ご無沙汰しております。テレビ朝日の野村です。貴兄のホームページを見て、入院、手術されたことを知りました。術後も精力的に活動されているようですが、お体に気をつけてください。

実は今ガザを訪れていて、ラジさんにお会いしたくずっと電話をしていましたが繋がりませんでした。事務所に確認したらジュネーブに行っているとの事でした。一応明日、事務所に挨拶に行き、名刺だけ置いてきます。今私がお世話になっているコーディネーターもラジさんに兄弟を助けてもらったことがあるらしく、絶賛していました。

あと、ご存知かもしれませんが、2ヶ月前からのイスラエルの一部封鎖解除以降、ラファ検問所が定期的に開かれていて、ジャーナリストはエジプトのプレスセンターが許可すれば、ラファ経由で自由にガザに出入りできるそうです。ただ我々はエジプトで記者登録しているので、日本大使館の推薦状さえあればすぐに許可は降りるようですが、記者登録されていない方が、可能なのかどうかは、エジプト帰国後調べて、またご連絡します。
(ちなみに今回は、それを直前に知ったためエレツ経由で入ってしまいましたが……)

ご存知でしたら、余計なお節介ですいません。

それでは、お体に気をつけてください。

テレビ朝日・野村能久
2010年9月28日

 昨年5月、私が脳梗塞で入院したことを、私のサイトのコラムで知ったのだろう。「手術」は誤認だが、わざわざ見舞いのメールを送ってくれた彼の思いやりと律義さがうれしかった。前年の夏以来、私がイスラエル政府によってプレスカード発行を拒否され、イスラエル側からガザに入れなくなっていたことを知っていた野村さんは、私がエジプト側からガザに入れないか気にかけ情報を集めてくれていたのだ。多忙な日常業務に追われ、電話やメールで問い合わせたり事務所に押し掛けて来る「フリージャーナリスト」などにかまっていられないだろう特派員の彼がわざわざ情報を送ってくれたのである。私は胸が熱くなった。
 私はすぐにお礼の返信をした。

野村様

メールありがとうございます。こちらこそご無沙汰しております。

6月に脳梗塞で1週間ほど入院しましたが、今はほとんど後遺症もなく、今月初旬から2週間ほど、海外取材の“リハビリ”のために、初めてレバノンに行ってきました(その報告はWebコラム「日々の雑感」に連載しています)。

エジプト側からのガザ入りに関する情報ありがとうございます。噂には聞いていましたが、明確な情報はまだ知りませんでしたので、助かります。いずれにしろ、私たちフリーランス・ジャーナリストがイスラエル側のプレスカードを取得するのが難しくなっているというのは、エルサレムにいる知人の特派員から聞いています。ガザ地区のみならず、西岸、イスラエルの取材にもさまざまな支障が出てくることが予想されます。

PCHR(パレスチナ人権センター)に行かれるようでしたら、副所長のジャバルにお会いになるといいと思います。「土井の知人だ」とお伝えください。また、センターには私の「兄弟」(ジャバリア難民キャンプの彼の家族のところに長く住み込み取材をしていました)のバッサムというスタッフがいます。私の知り合いだと言えば、いろいろ助けてくれると思います。

ガザの現在の様子でも教えていただければ幸いです。

土井敏邦
2010年9月28日

 するとすぐに、また野村さんから長いメールが届いた。先のメールから2時間後だった。

土井様

色々情報ありがとうございます。レバノン訪問記、拝見させていただきました。パレスチナに未熟な私にとっては、非常にためになると同時に、土井さんの長きに渡る地道な取材に、改めてすごいなと頭が下がります。

今回、和平交渉の行方の裏でガザの現状は、というような趣旨の企画でガザ入りしました。

2ヶ月前から実施された「陸上の一部封鎖解除」が少なからずガザ市民の生活を向上させたことを実感しました。トンネル頼みだった物資も、実際にイスラエルやエジプトから大量に入ってきていて、トンネルだけがライフラインだった状況とはあきらかに変わりはじめています。ただし、建築資材や医療器具などは依然禁止されていて、満足な生活が送れているわけではありません。特にトンネルに携わる多くの貧しい人たちにとっては、かなりの収入減となっていますが、そんな彼らですら一様に一部封鎖解除を歓迎していました。それが意外でしたが、それだけ封鎖がガザ市民を苦しめていたということだと思います。同時に、ハマスによる締め付けも、ガザ市民を苦しめていると感じました。

若者が冗談で「Israel is much better than Hamas」と言っていたのがとても印象に残っています。取材においても、いかにハマスの目を掻い潜って行うかなど非常に苦労しました。若い男女がダンスパーティーを行ったため、先週ハマスに急襲されて破壊されたテーマパークなども取材してハマスの強権ぶりを象徴しているなぁと感じました。

明日、ガザを発つ予定ですが、その前に人権センターに寄ってみます。

エジプトに帰国した際は、ラファ検問所の件、調べてご連絡いたします。

テレビ朝日・野村能久
2010年9月28日

 その後、野村さんは、エジプト在住でないジャーナリストがラファ経由でガザに入るための手続きについて調べてくれた。その結果、それほど簡単ではないことがわかったが、彼の誠意ある対応に胸を打たれた。
 私も野村さんに、日本での私のパレスチナ報告の進行状況をメールで報告した。

野村様

現在、私は、第一次インティファーダからガザ攻撃までの20年ほどのガザの歴史を、ラジ・スラーニをナビゲーターにして伝える5時間の長編ドキュメンタリーの制作中です。ほぼ全編をつなぎ終え、来年1月8日に、明大で初公開する予定です。

このドキュメンタリーは映画公開よりも、各章1時間ほどのDVDの5本セットを制作し、日本や海外で、大学などの教材として広めていくことを考えています。日本のメディアには、これらを報道できる場はありませんから。

土井敏邦
2010年10月25日

土井様

5時間とはかなりの大作ですね。自分を含め、いかに我々日本メディアが中東問題、ひいては中東に関心がなかったか、ここにきて痛感しています。土井さんなどのこうした地道な活動が、少しずつ日本人の考えを変えていくきっかけになると思います。

野村能久
2010年10月25日

 久しぶりに野村さんにメールを送ったのは、今年10月3日だった。

野村様

ご無沙汰しています。激しく動く中東の取材に、現地を飛び回っておられることと思います。先日、「報道ステーション」で長野智子さんがレポートするヨルダン川西岸のジャイユース村の分離壁の報告を拝見しました。これは野村さんがアレンジされたものですか。大震災以後、海外とりわけパレスチナの報道がめっきり少なくなったときに、久しぶりに特集を拝見して、とても新鮮でした。

私の方は、4月下旬以来、「日本の中の“パレスチナ”」を探して、福島の飯舘村の取材、そのドキュメンタリー映画の編集を続けてきましたが、やっと一段落し、仕上げの段階に入りました。果たしてほんとうに「日本の中の“パレスチナ”」が描けたか疑問ですが、「人にとって故郷とは何か」という問いを投げかける映画になっているのではと思っています。

土井敏邦
2011年10月3日

 さらに私は、近々エジプトを訪問したいので、最近のエジプトの様子を教えてほしいと依頼した。すると、その日のうちに、野村さんからの返信が届いた。

土井様

お久しぶりです。

先日の特集は、9月上旬に前支局長の大平氏(現報ステ・デスク)が日本から同行し取材したものです。私も国連加盟申請にあわせてラマラ入りしましたが、予想以上に盛り上がってました。またヨルダン川西岸とガザの違いにも正直びっくりしました。

 野村さんは、エジプトの近況について詳細な情報を書き添えてくれた。そしてメールの末尾をこう結んでいた。

何か不明な点や困ったことがあれば遠慮なくいってください。

野村能久
2011年10月3日

 これが野村さんから私に送られた最後の言葉となった。このメールから18日後、私は彼の死を知ることになる。

 テレビ局や新聞社などの特派員は選び抜かれたエリートたちである。大きな会社の看板を背負い、現地の取材の環境に恵まれた彼らは、私たちフリージャーナリストとつきあう必要もないし、あまりメリットもないのだろう。実際、「大会社の特派員」風を吹かせ、私たちとの接触を避けたがる特派員たちも見てきた。その一方、同じ現場を取材するジャーナリストの同志として、きちんと対応し付き合ってくれる特派員にもたくさん出会った。私は彼らからたくさんのことを教えてもらったし、返しきれないほどの恩を受けてきた。野村さんはそんな特派員の1人だった。近々エジプトを訪ね、彼とゆっくり話ができることを楽しみにしていた。そんな矢先の悲報だったからこそ、私が受けた衝撃はいっそう大きかった。
 享年37歳。これから大きく羽ばたいていくはずの若い熱血漢のジャーナリストだった。大組織に所属する記者でありながら、吸収できるものは誰からでも何でも吸収しようとする意欲と謙虚さをもった人だった。取材へ向かう途上の不慮の事故によって、その洋々とした未来と、ジャーナリストとしての志を絶たれた野村さんはどんなに悔しかったろう。そして残される愛しい家族のことを想うとどんなに辛かったろう。

 野村能久さん

 短いながら、わずかでもあなたと交流を持つ機会を得た私にできることは、あなたが果たせなかった志を、そのほんのわずかでも、生き残っているジャーナリストの同志の1人として引き継いでいくことです。非力ながら、できるだけのことはやっていきます。天国から、見守っていてください。

 ほんとうにありがとうございました。

 さようなら

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