Webコラム

長い間、ある事情のために『日々の雑感』の掲載を控えていましたが、やっと問題が解決しましたので、今日からほぼ1カ月ぶりに掲載を再開します

日々の雑感 237:
8年半ぶりのエジプト訪問

2011年11月3日(木)

 今、私はエジプトのカイロにいる。2003年3月以来、8年半ぶりである。あの時私は、このカイロで故・エドワード・サイードと対談するためガザから陸路でカイロ入りするパレスチナ人権センター(PCHR)代表のラジ・スラーニに同行した。その対談はNHKのドキュメンタリー番組としてその年の5月に放映された。それはエドワード・サイード最期の対談となった。その年の夏、サイードは長年患っていた白血病のため死去した。
 その対談を終え、ガザへの帰路、国境のラファに到着したとき、イラク戦争が勃発した。国境はその影響でまさに閉鎖される直前だった。幸い、私たちは間一髪で国境を越えることができた。
 そんな思い出深いカイロに8年半ぶりに戻ってきたのは、あの時ラジと旅した同じ経路でガザに向かうためである。

 2009年夏以降、私はイスラエル政府によってプレスカード発行を拒否されている。イスラエル当局はその理由をついに明らかにしなかったが、おそらく「ガザ攻撃」(2008年12月下旬から翌年1月までの3週間)に関する私のテレビ番組、書籍の出版、世界報道写真展での映像報告など一連の報道、それにその年に劇場公開したドキュメンタリー映画『沈黙を破る』などが原因と思われる。
 イスラエル政府のプレスカードがなければガザとの境界エレズ検問所を通過できない。つまりガザへ入れないということだ。私はイスラエル側からのガザ入りの道を絶たれた。
 その後、私は十数年間で撮りためていたガザの映像を、ドキュメンタリー映画『ガザに生きる』5部作にまとめる作業にかかった。1年ほどをかけ、粗編がほぼまとまった。今年1月には、東京でその中間報告会も開いた。その直後、いわゆる「アラブの春」の嵐が吹く。とりわけ1月、エジプトで、30年以上続いたムバラク独裁政権が倒れるという、だれも予想もしなかった大変革が起こった。エジプトの革命は、隣接するガザにも今後大きな変化をもたらすはずだ。いや、すでにもう変化が起こっているにちがいない。ガザの十数年の歴史をドキュメンタリー映画としてまとめようとするとき、最新の変化を無視するわけにはいかない。『ガザに生きる』5部作完成のためには、どうしてもガザの近況を取材しなければならない。イスラエル側からのガザ入りが無理なら、残された道はエジプト側からのガザ入りしかない。幸い、1月のエジプト革命によって、国境ラファの通行が以前より緩和されたと聞いた。ただ海外のジャーナリストの出入りの規制が緩和されたという確実な情報はない。ならば、現地で実際、トライしてみるしかない。10月27日、私は成田空港を発った。

 あるテレビ局からのアサイメント・レターと日本大使館からの推薦レターを持って、エジプト政府のプレスセンターにガザへの通行許可を申請したのは10月30日、しかし1週間ほど経った今も、まだ許可が下りていない。焦り、いら立ちながらも、祈るような気持ちで、ただひたすらその結果を待っている。

 カイロに飛んだもう1つの理由は、粗編の『ガザに生きる』5部作英語版DVDを、その映画全編のガイド役を担ってもらったラジ・スラーニに手渡し、その内容をチェックしてもらうことだった。とりわけ第1部『ラジ・スラーニの道』では、人権活動家としてのラジの半生を描いている。その内容に間違いないか、本人に確認してもらわなければならなかったのだ。幸いラジから、この頃にはカイロに滞在中だと連絡を受けていた。
 私がカイロに到着した10月28日の夜、私たちは市内のホテルで再会した。昨年5月末、講演のために来日したラジを成田空港で見送って以来、1年半ぶりの再会だった。
 ラジ・スラーニと最初にガザで出会ったのは、第1次インティファーダ前の1986年だった。当時、まだ非合法だったPLOの左派PFLPのメンバーだったことでイスラエル占領当局によって投獄されたラジが、尋問と拷問が続く3年近い獄中生活から解放されたばかりの時である。あれから20数年、私はラジに導かれながら、パレスチナとりわけガザの取材を続けてきた。私と同い年であるラジは、私にとって20数年来の親友であると共に、パレスチナ問題の“恩師”でもある。
 私はホテルのロビーで第1部『ラジ・スラーニの道』を見せた。将来のドキュメンタリーのために半生を語るラジのインタビューを撮影したのはほぼ11年前の2001年の冬だった。当時、私は自分自身で編集し映画にする技術もなかった。いつドキュメンタリーを作れるのかのあてもなく、私はただ「今やっておかねば機を逸してしまう」という思いで、10数時間、インタビューした。今や世界に知られる著名な人権活動家となり、世界を駆け巡るラジから同じ長さのインタビューを撮ることは難しいだろう。もちろん、私がビデオカメラを回し始めた1993年以来、大きな出来事があるたびに彼に映像でインタビューし続けてきたから、合計すれば相当の長さのインタビュー映像が私の元に残っている。もしドキュメンタリー映画としてまとめることがなければ、歴史的にも貴重な映像が他の人に触れることのなく、私の映像倉庫に眠ってしまうことになる。ラジに限らず、すでに他界した、アラファトと並ぶパレスチナの著名な指導者、ハイデル・アブドゥルシャーフィ、ハマスの指導者、アハマド・ヤシン、イスマイル・ハブシャナブなどパレスチナの歴史に刻まれる著名人たちのインタビュー映像も埋もれてしまう。私がどうしても、『ガザに生きる』5部作として、それらの映像をまとめたいと願うのは、そういう理由もあるからだ。
 ラジが私のドキュメンタリー映像のなかで、とりわけ見入ったのは、数年前に亡くなった母親へのインタビュー映像だった。2001年冬、まだ健在だった母親にインタビューする機会があり、それが映像して残っていることがラジにはいちばん嬉しかったにちがいない。
 このドキュメンタリー『ガザに生きる』5部作は、ラジの半生の記録であると共に、私にとっても、“ガザ”と関わってきた私自身の軌跡の記録でもある。その完成のために、私はどうしても、もう1度、ガザに行かなければならない。

(エジプトの革命の拠点となったタフリール広場前では、革命を誇るかのように国旗の小旗が売られていた/11月2日撮影)

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