Webコラム

日々の雑感 260:
飯舘村・村を離れた酪農家たち(2)・田中一正さん

2012年4月22日(日)

田中一正さん

 長谷川義宗さんを山形の牧場に誘ったのは、長泥地区の酪農家だった田中一正さん(41歳)だった。田中さんは、東京生まれで新潟育ちで、北海道の酪農学園を卒業後、数年間、栃木県の大牧場に勤めていたが、11年前、酪農をやるため飯舘村に移り住んだ。一時は、飯舘村一の乳量を生産するほどに田中牧場の酪農業は順調だった。しかし、あと半年でちょうど10年目という時に福島第一原発の事故で、軌道に乗っていた長泥での酪農業を諦めざるをえなくなった。
 飯舘村で生まれ育ったわけではない「よそ者」の田中さんは、他の村人から「お前はいいべ。東京か新潟に帰ればいいんだから」と言われることがあった。しかし、30歳のとき飯舘村での酪農に自分の人生を賭けて移り住み、10年間必死で生きてきた自分は、ここで生まれ育った村人と同様に、いやそれ以上に、この村への愛着、“愛郷心”はあると田中さんは言う。

 「時々、長泥の自分の家に帰り、牧場の周りを散歩すると落ち着きますね。ここは私の心の拠り所だったし、誰にも侵害されない、僕にとっての“聖地”なんです。ちっぽけだけど、僕の“縄張り”だし、“城”です。僕の国、“田中王国”です」

 放射能によって長泥を追われた後、田中さんは、現地の酪農組合の幹部から「ぜひ牧場の立て直しをお願いしたい」と請われて山形へ移った。しかし実際にこの牧場で、長谷川義宗さんのような若者たちに混じって働いてみると、40歳になった自分の体力の衰えを痛感した。一方、この牧場で自分に求められているのは「牧場立て直しの担い手」ではなかったのではないかと疑問が膨らんできた。福島市の郊外での「復興牧場」の話が舞い込んできたのはそんな時期だった。福島の酪農の復興のために一肌脱ぐかと、福島に戻る決心をした。
 独り身の田中さんにとって、牧場で飼っていた愛犬が“唯一の家族”だった。長泥を出るとき、東京に住む両親に預けたが、老いた両親にとって毎日の散歩が必要な犬を預かり続けることが負担になってきた。その愛犬を引き取るにも、都会の狭いアパートに移り住むわけにはいかない。かといって、これから先のことがはっきりしない今の段階で、改めて建売の家を買って見動きがとれなくなるのも不安だ。田中さんは、とりあえず長泥の家に戻ることを考えている。「長泥の高い放射能線量は怖くないですか」と訊くと、「線量が一番高い時期に2ヵ月以上も住んでも、聞きとり調査による被ばく線量は17ミリシーベルトだと言われた。手足がしびれるということもないし、大丈夫じゃないかなあ」と田中さんは答えた。

 「飯舘村の生活は幸せだったんだと思います。あれが、自分が納得いく生き方ができた人生のゴール、終着駅だったんでしょうね。10年前に自分のめざすところに辿り着いていたんだろうな。ならば、長泥でのあの生活をもっと楽しんでいればよかったなあ」

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