Webコラム

ガザからの報告(2014年夏)
(20)ガザ住民の「戦争」観・「ハマス」観(2)
UNRWA学校・2人の息子を殺された母親

2014年8月29日(金)

 避難民たちの声を聞くために、私が選んだのはガザ市内の南部テルアルハウワ地区のUNRWA小学校だった。たまたま訪ねた時に知り合った心理療法士の女性スタッフ、オム・モハマドが私の仕事を理解し積極的に協力してくれたからだ。
 その学校には2000人を超える避難民たちが生活していた。主にベイトハヌーンなどガザ北部の町やシャジャイーヤ地区などイスラエル軍によって激しい攻撃を受け、地区全体が廃墟となった地域から逃れてきた人たちである。

 ラティファ・ナーセル(58)とその義娘ラワ・ナーセル(26)と同じく義娘サマール・ナーセル(28)が、学校の事務室に招かれた。衆人の眼のないところで、落ち着いて話ができるようにとオム・モハマドが計らってくれたのだ。ラティファの2人の息子はイスラエル軍の攻撃時に殺害された。息子の1人は爆弾の破片で顔の半分が吹き飛んで脳が飛び出し、全身に破片が刺さっていた。ラワとサマールはラティファの2人の息子の妻たちである。


(写真:母親ラティファ・ナーセル)

 母親のラティファが当時の様子を語った。

 「地上侵攻が始まった7月17日はラマダン(断食月)中で、ベイトハヌーン町の5階建ての家で暮らす家族の約80人の大半は1階の部屋に座っていました。まもなく隣の家が砲撃され、その直後に私の家の階上が砲撃を受けました。階上には3人の息子たちがいました。2人が殺され、1人が負傷しながらも生き残りました」

 「2人の息子が殺され、私は『救急車を!』と叫びました。やがて2台の救急車がやってきました。2人の息子の遺体は別々の部屋から運び出されました。他の家族も走って逃げました。そして遺体が置かれたベイトハヌーン病院に家族が集まりました。しかし病院の建物の前に武装勢力がいたため、今度は病院に向けてイスラエル軍の砲撃が始まりました。私たちはすぐにその病院から逃げました。爆撃や砲撃がいっそう激しくなり危険になったので、ベイトハヌーン町を出て、この学校まで(十数キロ)歩いて逃れてきました。車がなかったんです。80人の家族が一団になって歩きました。大人が幼い子供たちを抱き、衣類を入れた包みをかかえて運びました。ベイトハヌーンを出たのが午前10時ごろで、ここに着いたのは午後4時でした」


(写真:ラワ・ナーセル)

 夫を亡くしたラワ・ナーセルが語った。

 「私は10日間ほど実家に帰っていて、ベイトハヌーンの夫の家に戻った直後にイスラエル軍の砲撃が始まりました。そして夫カラーム・ナーセルが殺されました。女たちは子供たちを抱いて必死に逃げました。私は裸足でした。どこへ行っていいのかわからず、逃げながら泣き叫んでいました。最終的に救急車が夫をガザ市内のシェファ病院へ運びました。しかし2日間、冷凍した遺体収容庫に入れられず、外に放置されました。夫はとても背が高く、その遺体が入る冷凍庫がなかったんです。2日間放置され、死臭が漂うようになりました。3日目にやっと近くの墓地に運んで埋葬しました。爆撃が激しくて、それまで埋葬できなかったんです。墓地では爆撃で墓までが暴かれていました」


(写真:サマール・ナーセル)

 もう1人の義娘でベールを被ったサマール・ナーセルはこう語った。

 「夫は33歳で建設労働者でした。一般の民間人でハマスなどとはまったく関係ありませんでした。4人の息子と娘1人が残されました。(泣く)子供たちは父親を奪われてしまいました。夫は私が求めるものは何でも提供してくれました。夫は私の愛する人であり、家族そのものでした。その自分の最も大切な人を失ってしまいました。私は自分の人生のすべてを失なったんです。夫を亡くした妻は、人生が終わってしまいます」

 彼女たちはまた、2000人を超える避難民がひしめきあって暮らす学校での避難生活にも苦しんでいた。ラワがこう言った。

 「夫が生きていたときは、きちんとした生活ができました。他の男性と滅多に接することもありませんでした。夫からとてもいい待遇をしてもらい、快適な生活をさせてくれました。しかし学校では誰からも見られて、好ましい場所ではありません。夫を亡くした妻は、夫の死後3ヵ月と40日は、他の男性と話をしたり、接したりしてはいけません。しかし学校では、どこへ行っても男性がいます。トイレへ行っても、子供達の用事で教室を出ても、男たちがどこにでも座っていて、会わなければならない。殉教者の妻は、こんなところに放置されるのではなく、アパートの部屋を提供されるべきなのに」

 母親のラティファも避難所暮らしの辛さをこう語った。

 「私は80人の家族に責任を持たなければなりません。1つの教室に80人ですよ。こんなにいろいろな他人の中で暮らすのはとても辛いんです。でも、家を破壊されてどこへ連れていけばいいんですか。学校以外に避難所がないんです。でもこれだけ多くのものを失ったあとは、もうどこでも構いません」

 イスラエル軍の激しい砲爆撃にされられ、家を破壊され、家族を殺され、そして厳しい避難生活をしなければならない状況は、幼い子供たちにも悪影響を与えていた。サマールが言う。

 「1歳の娘が、お父さんを連れて来てと私に言うんです。瓦礫の中の父親の匂いのするものを持ってきてとせがみます。父親のカードにある写真にキスをするんです。子供たちにとって父親を奪われた痛みはこれからも、ずっと続くでしょう」

 しかしそれは子供たちだけではなかった。子供について語るサマール自身、トラウマに苦しんでいる。

 「いつも悪夢にうなされます。砲撃から逃れている夢です。自分の家が砲撃された時のこと、夫が殺された時のことなどが蘇ってくるんです。精神的に行き詰って、ナイフを隠れ持ち、イスラエル兵に出会ったら刺し殺すつもりでした。それが怒りを表出する手段なのです。そんな私を周り家族が鎮めようとします」

 母親ラティファがその義娘サマールについてこう言った。

 「義娘は夫の服の一部をいつも持ち歩き、いつもその匂いをかいでいるんです。精神的な衝撃を受け、他人から話しかけられても、話ができない時期がしばらく続いていました」

 一方、サマールは自分を鼓舞するように、こうも言った。

 「夫を失った後に将来はありません。でも夫を失ったのち、決意もできました。夫がいた頃は、私はとても弱い人間でした。夫が自分に代わってなんでもやってくれたからです。でも今は、子供を世話するために強くならなければと思っています。息子と4人の娘にいい教育を与えたいです。亡くなった夫が子供たちを誇りに思えるように。そして夫の魂が平穏になるために」

【「戦争」観・「ハマス」観】

 「あなたの怒りはどこへ向かうのですか」と私は母親のラティファに訊いた。

 「私たちはイスラエル側とハマス側の両方のためにすべてを失いました。息子2人も失いました。この延々と続く闘争から、私たちはなにも得ることありません。私はイスラエルとハマスの双方に怒りを抱いています。ハマス側からもイスラエル側からもなんの利益も得てはいません。この戦争はただ私たちの家と家族と生活を破壊したんです」

 「ハマスやイスラエルは私の息子を生き返らせてくれるのですか。息子たちを育てるのにたいへんな努力をしたんです。
 私はいつも自分を落ちつかせようとしています。しかし息子たちのことを思うと、煮えたぎるような気持ちになります。爆発しそうになるんです。義娘たちの前では、彼女たちを耐えさせるために毅然としているけど、しかし心の中は地獄です。息子たちに起こったことを思い浮かべると、燃えたぎるような思いなんです。
 もちろんハマスを批判する発言をすることは怖いです。もしはハマスを非難すると、イスラエル側の協力者とみなされてしまいます。だから発言しないほうがいいのもしれません」

 義娘サマールはこう言った。

 「私はイスラエル側もハマス側も両方を非難します。住民だけが苦しんでいるんです。両方が現在、起こっていることに責任があります。夫が死んでから、もう私は恐れるものはありません。私はイスラエルとハマスの双方を非難します」

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp