Webコラム

日々の雑感 333:
生者は死者を“代弁”できるのか

2015年4月20日(月)


(写真:朝日新聞)

 半年ほど前に、大岡昇平の小説「野火」を映画化した映画「野火」を試写会で観た。昨年8月、「第71回ヴェネチア国際映画祭」メインコンペティション部門への正式出品された話題作である。その内容の要約がインターネットの映画解説に次のように紹介されている。

 太平洋戦争末期の日本の劣勢が固まりつつある中でのフィリピン戦線が舞台である。 主人公田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否される。現地のフィリピン人は既に日本軍を抗戦相手と見なす。この状況下、米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、全ての他者から排せられた田村は熱帯の山野へと飢えの迷走を始める。 律しがたい生への執着と絶対的な孤独の中で、田村にはかつて棄てた神への関心が再び芽生える。しかし彼の目の当たりにする、自己の孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友達という現実は、ことごとく彼の望みを絶ち切る。 ついに「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じることに追い込まれた田村は『狂人』と化していく。

 米軍の銃砲撃によって肢体や頭部を引きちぎられ吹き飛ばされた日本兵たちの無残な姿、空腹と疲労、マラリアなどの病気で、迷走するジャングルの中で次々と倒れていく兵士たち……あまりにもリアルな阿鼻叫喚の戦場シーンに、私は目を背けてしまった。
 鬼才・塚本晋也監督が脚本・編集・撮影・製作を独りでやり遂げ、しかも自ら主演している。その塚本氏はこの映画についてこうコメントしている。

 20年前から構想し続けた作品でベネチアに参加出来ることを嬉しく思います。戦争の恐ろしさを描いた大岡昇平さんの原作小説の映像化は国内での製作は困難を極め、なかなか出資者が集まらず、結果、自主製作することになりました。そんな作品が最古の映画祭のコンペティション部門に選ばれたこと、なおかつ、この時期に世界に発信出来ることの意義をひしひしを感じています。

 なぜ「国内での製作は困難を極め、なかなか出資者が集まらず、結果、自主製作すること」になってしまったのか。私が想像するに、この映画で描かれているフィリピン戦線での戦争の実態、つまり日本軍兵士たちが置かれた状況のあまりの過酷さ、残酷な死、そしてタブーとされる“人肉食”を正面から扱った、現在の日本人が目を背けたくなる歴史事実を容赦なく突きつける映画だからだろう。
 しかしこれがあの「太平洋戦争」の南方、南太平洋戦線での現実だったのだ。実際、南方戦線での戦死者の大半は戦闘による戦死ではなく、餓死だったといわれている。

 もし私があの映画に登場する日本軍兵士の立場に追い込まれていたとすれば、どういう思いが脳裏を過ぎっただろうか。「ひもじい! とにかく口に食べ物を入れたい」「こんなところで、こんな犬死はしたくない! 生きたい! 生き延びて親父やお袋、女房や子どもらにもう一度会いたい!」という思いだけが頭の中を一杯にしていたに違いない。その時に、「お国のために」「天皇陛下のために」という思いが浮かぶ余裕などなかったはずだ。人肉を食べてでも生き延びたいという強い“生”への執着、それさえも尽き果てて、無念にも命果てた兵士たち……

 4月8~9日の天皇夫妻・パラオ訪問の報道を見ながら、私はそんなふうに死んでいった兵士たちの無念さを想っていた。だから、テレビや新聞が伝える生き残った兵士たちや、死んでいった兵士たちの遺族の言葉に、私はずっと違和感を抱き続けていた。
 生き残った元兵士の1人は天皇の慰霊碑参拝に「本日はありがとうございました。戦友に代わってお礼を申し上げます」と言い、他の元兵士は「これ以上の光栄はない。英霊たちもありがたいと思っているでしょう」「戦友のことを思うと、陛下が行かれたのは大層ありがたいし、英霊も一区切りついたと思いますよ」と語った。
 一方、兄がペリリュー島で戦死した遺族は「きょう両陛下においで頂いたことで、兄の御霊も祖国日本に帰れるじゃないかと思います。体はここにあっても、日本に魂が届くんじゃないかと、ほんとうに感謝してありがたく思いました」と心情を語り、父親を亡くした遺族は「はるばるお訪ねいただいて、この上なくうれしいとお答えしました。父には“よかったですね”と申し上げたい」と答えている。

 ほんとうに死者たちは「喜び、感謝し、ありがたく思っている」のだろうか。もし私があの地獄のような状況下で無念さに胸をかきむしられながら、命が尽きていったあの兵士なら、自分をこのような状況に追いやった国の責任者たちへの抑えようのない憤怒を抱かないか。当時の昭和天皇は、その「責任者たち」の例外ではなかったはずだ。戦前、昭和天皇は日本帝国憲法下での国家の最高権力者であり、帝国陸海軍の最高位「大元帥」だったのだから。
 その昭和天皇の後継者である現天皇の“慰霊”を、あの死者たちは素直に「喜び、感謝し、ありがたく」受け止められるのか。生前に「皇民化教育」を叩き込まれた兵士たちは、その極限状態においても、天皇は「ありがたい」存在であり続けたというのだろうか。

 同じ地獄の体験を共有し生き残った元兵士たちは、死者たちの“無念さ”“抑えがたい憤怒”をほんとうに理解し共有できるのだろうか。同じ修羅場を体験した者同士だとしても、生者と死者の間には絶望的なほどの“断絶”があると私は思う。生者はその後の人生の中で“生”の喜びを享受でき、あの当時の体験さえ“苦しかった思い出”と相対化して振り返ることができるかもしれない。しかし死者は、その“無念さ”“憤怒”を抱えたまま、“生”を享受する機会も奪われて命途絶えてしまったのだ。そんな死者たちの心情を、生者がどうして「英霊たちもありがたいと思っているでしょう」と代弁できるか。

 死んでいった兵士の遺族が、「ほんとうに感謝してありがたく思いました」「はるばるお訪ねいただいて、この上なくうれしいとお答えしました。父には“よかったですね”と申し上げたい」と語りたい心情はわかる気がする。「そう思えなければ、かけがえのない父や兄弟たちの死が“犬死”になってしまう、その理不尽な死を“意味づけ”にしたい」という遺族の思いがそう語らせるのかもしれない。しかしそれにしても、無念な思いを抱えて死んでいったであろう死者たちの心情を、その言葉が代弁しているとは私にはどうしても思えないのだ。

 パラオ周辺で戦没した元日本軍兵士たちの慰霊の旅は、天皇が「長年、希望してきた」旅だったという。国のために犠牲になった兵士たちの霊を慰めたいという現天皇の思いは、真心だと思うし、広島・長崎訪問、沖縄訪問、さらに10年前のサイパン訪問など重ねてきたその行動に私は好感を抱いている。
 私は個人的に“天皇制”に疑問を持ち、昭和天皇の“戦争責任”が追及されなかったことに納得できないでいる日本人の1人だ。ただ現天皇が過去の日本の過ちを踏まえて、“平和”と、その礎となってきた“日本国憲法”を厳守しようとする姿勢には賛同できる。とりわけ安倍政権が現憲法を骨抜きにし、さらに改悪しようとする動きが顕著になり、それが現実のものとなろうとしている現在、現天皇の“憲法厳守”を公言する毅然とした姿勢はひじょうに大きな意味を持ち、それが「憲法改悪」の最後の歯止めの1つになるのではという淡い期待もある。

 これは私の勝手な想像だが、そのように“平和主義”の姿勢を貫く現天皇の“慰霊”の心情の中に、もう1つの意識が隠されているのではないか。それは“謝罪”の意である。父親の昭和天皇が当時、日本の最高責任者であった時代に日本が起こしてしまった侵略戦争の結果として命を落としていった旧日本軍兵士たちへの、天皇継承者としての“謝罪”だ。現天皇の“感性”からすれば、それは十分ありえると私は思う。
 ただ「天皇」という立場上、それを公言するのは難しいだろうし、また周囲や政府がそういう公言は絶対許さないだろう。またメディアも、こういうことに言及することは「不謹慎」「不敬」「絶対触れてはならないタブー」として自主規制するだろうが。
 しかし、理不尽に無念の死に追いやられた兵士たちが天皇に求めていたのは、“慰霊”と共に、まさにこの“謝罪”ではなかったか。

 今回の天皇夫妻のパラオ訪問に関するメディア報道は、まるで金太郎飴のように切り口が酷似していた。「遠い南洋の島で国のために犠牲なった兵士たちを、高齢を押して長旅に耐え慰霊する心優しい両陛下」「両陛下の慰霊に、亡き兵士たちに代わって感謝、感激する元兵士と遺族」という図式である。大半の報道があまりにも似通ったトーンなので、政権側から報道方針の要請または規制を受けているのではないかと疑うほどだ。メディアが「自主的」に一斉に同じ方向へ向かう──言い知れぬ不気味さを感じてしまう。

 そんな中、現在、国内外の注目を浴びているあの「報道ステーション」はこのパラオ・慰霊の旅をどう報じるのか、興味深々だった。
 その日のトップニュースとして、8分も割いて伝えたその報道の中身は、やはり「金太郎飴」そのものだったが、驚いたのはVTR映像直後のスタジオでのコメントだった。コメンテーターは、朝日新聞論説委員の恵村順一郎氏の降板後に新たなコメンテーターに抜擢された4人の1人、企業戦略コンサルタント、ショーン・マクアードル川上氏である。彼はこう語った。

 日本軍10500人、米軍陸海合わせて5万人(ママ)が犠牲になる日米の凄惨な闘いだった場所です。そこに両陛下が訪ねられて、鎮魂と不戦への思いを強くされたと思いますけど、一方で東京に目を移しますと、カーター国防長官が来日されて、日米の新しいガイドラインを27日向かって安全保障の協議をし、それを新しく作り変えると、そこに書かれているのは「切れ目のない日米関係、日米同盟のグローバルな性質」という言葉もそこに入ってくるということなので、両陛下のそういった思いや、私たちの思いというものをしっかり握り締めたかたちで、その手で握手をしっかりしてほしいなと思います。

 「日米の新ガイドライン」と「両陛下のそういった思い」と「私たちの思い」を「しっかり握り締めたかたちで、その手で握手をしっかりしてほしい」とまったく支離滅裂なコメントを1000万人以上が観る報道番組で公言する川上氏。私は唖然とした。これが「テレビ朝日」幹部が、恵村氏や古賀茂明氏、そしてこれまで番組を担ってきたプロデューサーを“更迭”して作り変えようとする「報道ステーション」の新路線なのか。3氏の“更迭”後、以前のように、権力者や強者を怯まず批判する果敢な報道姿勢が薄れた「報道ステーション」に私の関心が失せ、以前のように録画もしなくなった。それは私だけではなさそうだ。「朝日新聞」が毎週紙面に掲載するテレビ視聴率のベスト10から「報道ステーション」が消えた。

 天皇のパラオ訪問報道で、もう1つ気になったことがある。それは現地の人々の反応の伝え方だ。
 パラオは第一次世界大戦を機に日本が占領し、30年にわたって委任統治してきた。その日本統治下で、現地の人々は日本の公教育を強いられ、現地特産のリン鉱石も日本人によって採掘され搾取された。しかも2万5千人の日本人が押しかけ、日本人の小世界を作り上げる。
 NHKの「ニュースウォッチ9」は、当時流行った、「海で生活(くら)すなら、パラオ島におじゃれ」と唄う「パラオ恋しや」の歌を紹介し、当時のパラオを知る元兵士にこう語らせている。
 「“島へ来るなら、パラオにおじゃれ”と、そのくらいパラオは繁栄した街でした。眼鏡屋さんから自転車屋さん、お酒屋さん、さまざまでした。当時、25,000人あまりが暮らしていたパラオ、太平洋地域を管轄する中心地でした」
 これは“占領した側”の視点である。では“占領された側”の視点はどうか。あるテレビ番組では、かつて日本語教育を受けた老女に、かつて覚えた日本の唄を歌わせ、日本統治時代を「懐かしがる」声を伝える。また現地では「ベントウ」「センキョ」などの日本語が今なお使われ「定着」していることを肯定的に伝えた(「東京新聞」4月9日夕刊)。
 しかしそれらもあくまでも“占領した側”からの視点だ。一方、“占領された側”はそれを実際どう受け止めていたのだろうか。日本の教育を強いられ、日本社会に同化することを強制されることは、現地の人々にとって自分たちの言葉や文化が奪われ、“パラオ人としての尊厳”を奪われることだったはずだ。それに反発し抵抗した住民は少なくなかったはずである。
 また戦時中の日米の激しい戦闘によって、たとえ、日本の報道が伝えるように、直前に日本側が大半の住民を島から一時避難させたことが事実だとしても、戦闘に巻き込まれた原住民は少なからずいたはずだし、戦争によって島は破壊しつくされ、住民は住居や故郷を奪われてしまったはずだ。しかし今回のパラオ報道では、私の知る限りそのことはまったく伝えられなかった。日本兵の犠牲だけにフォーカスを当てられる報道には、日本が起こした戦争による現地の住民の犠牲や苦難はまったく視野に入らないのである。ジャーナリストの人質・殺害事件の報道と同様、まるで日本人の命が、現地住民より何千倍も重いかのような、“日本人中心主義”が染み付いた日本のジャーナリズムの典型的な一例である。

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