Webコラム

日々の雑感 340:
なぜ今、アミラ・ハス氏を招聘するのか

2017年9月8日

忘れられる“パレスチナ”

 今年2017年は、パレスチナのヨルダン川西岸、ガザ地区、東エルサレムなどがイスラエルに占領されて50年目に当たる。しかしこの数年、“パレスチナ”は、動乱のシリアやイラク情勢の陰に隠れて、日本メディアでほとんど報道されなくなった。
 去年暮、私が「パレスチナ占領50年」企画を、あるテレビ局に持ち込んだとき、対応したプロデューサーに「日本の視聴者は『パレスチナ占領50年』なんてほとんど関心ありませんよ」と一蹴されてしまった。長年、“パレスチナ”に関わってきた者にとっては重要な“節目の年”であっても、一般の市民にはもちろん、メディアにとっても「ほとんど関心のない遠い問題」なのかと、その温度差に私は愕然とした。

 その日本社会の空気を少しでも変えるために、長年“パレスチナ”に関わってきた私たちがなんらかの行動を起こさなければならないと思った。しかしそれは、これまで何度も試みてきたような、日本人のジャーナリストや研究者たちの報告会やシンポジウムでは今の空気を変える力にはなりえない。ならば現地から当事者を招聘するしかないと考えた。

 では、誰を呼ぶべきか。
 占領の現場をほとんど知らず、資料やメディア報道を元に「問題」を解説する研究者は適任ではない。いま一般の日本人に必要なのはパレスチナの「知識」ではない。“パレスチナ”を私たち自身に引き寄せられるほど現地の人の“息遣い”を伝えられる人、つまり現場に根付いて “占領”の実態を肌で知りつくした人である。

 また“パレスチナ占領”を伝えるためには、パレスチナ側の視点だけでは不十分で説得力がない。もう一方の当事者であるイスラエル側からの視点が絶対に不可欠である。
 それらの条件を満たせる人物として真っ先に私の脳裡に浮かんだのが、イスラエルの有力紙『ハアレツ』の占領地特派員、アミラ・ハス氏だった。

 ハス氏は、イスラエル人でありながら、パレスチナ(PLO)とイスラエルとの間の「和平」合意、いわゆる「オスロ合意」が調印された1993年秋からパレスチナ自治区のガザ地区、97年からはヨルダン川西岸地区ラマラ市に住みつきながら現場をつぶさに取材し、イスラエル社会に“占領”の実態を伝え続けている。その報道は国際的に高い評価を受け、2003年「ユネスコ ギョレモ・カノ世界報道自由賞」「アンナ・リンド人権賞」など数々の国際賞を受賞している。その一方、自国の加害の実態を白日の下にさらしたために、一部のイスラエル国民からは「祖国への裏切者」と呼ばれて脅迫され、他方ではハス氏が歯に衣着せず批判するパレスチナ自治政府やハマス政権から追放や脅迫を受けてきた。

「ジェニン侵攻」記事の衝撃

 占領50年という節目の年にアミラ・ハス氏を招聘しようと決断した動機には、私個人の強い思いもあった。
 アミラ・ハス氏と出会ったのは24年前の1993年10月、「オスロ合意」直後のガザ地区だった。私が取材のために住み込んだジャバリア難民キャンプのある家族の長男が、ハス氏のコーディネーター兼通訳だったのだ。当時、まだアラビア語ができなかったハス氏にとってその長男は「アラビア語の先生」でもあった。自由にアラビア語を使いこなし、取材に独り車でヨルダン川西岸の街や村を駆け回っている現在のハス氏とは隔世の感がある。

 そのハス氏のジャーナリストとしての力を改めて見せつけられたのは、2002年4月19日に『ハアレツ』紙に掲載された「イスラエル軍のジェニン侵攻」に関する1ページ全面を埋めた記事だった。私はある文章の中で、その時の衝撃をこう書いた。

 「私はうちのめされた。読者を現場に引き入れてしまうような詳細な風景描写、猛攻撃にさらされているキャンプ内の様子を住民の目で実際に目撃しているかのような錯覚さえ起こさせる証言の数々。3日間にわたって取材したというその記事の深さは、当時、私が読んだジェニンに関する多くの記事の中でも突出し、異彩を放っていた」(アミラ・ハス著『パレスチナから報告します』(筑摩書房/2005年)「解説」より)

 当時、私自身も、ほぼ同じ時期にジェニン侵攻直後の現場を取材していた。しかし私にはハス氏が描いた「ジェニン侵攻」の実態が見えていなかったし、描けなかった。それは、悔しいが、「ジャーナリストとしての資質の差」だった。
 私を驚嘆させたのはハス氏の取材力、筆力だけではなかった。難民キャンプの一画の家々が瓦礫の山となり100人近くが殺害された直後のジェニンの住民たちは、イスラエル軍だけではなく、イスラエル人全体に対して激しい憎悪と復讐心に燃えていただろう。そんな中、イスラエル人であるハス氏が難民キャンプの現場に入ることは、私たち外国人ジャーナリストとは比較にならないほど危険だったはずだ。それなのに、なぜハス氏は現場に飛び込んで取材できたのか。私は直接、ハス氏に尋ねたことがある。その時に返ってきた答えはこうだった。

 「それは『勇気』の問題ではありません。私は長くパレスチナ社会で暮らして、パレスチナ人はどういう人たちであるかを知っていました。いつ彼らを信頼できるのか、どんな人とすぐに話ができるのか、をです。相手のことをよく知っていれば、恐怖心を持つことはありません。非常に特殊なケースを除いて、私は自分がユダヤ人であり、イスラエル人であることを隠すことはありません。この4年間で2、3回だけそういう例外がありましたが。
 私がジェニンに入ったとき、ほんの5分も経たないうちに、人々が私に話しかけてきました。イスラエル軍はまだ周囲にいました。私はすぐに自分がイスラエル人であることを告げました。もちろん全員が喜んで受け入れたわけではありませんが、少なくともだれも私を殺そうとは思いませんでした。パレスチナ人は寛大な人々です」

 同じく“パレスチナ”を長年取材するジャーナリストである私にとってアミラ・ハス氏はめざすべき目標だった。パレスチナ問題から離れても、一級のジャーナリストとして、いつか日本に招聘し、ハス氏から「ジャーナリストとはどうあるべきか」を学びたいと長年願ってきた。

アミラ・ハス招聘の2つの期待

 “パレスチナ”に関しては、来日するハス氏に期待することが2つある。
 1つは、まずイスラエルによるパレスチナ占領の実態を、長年の取材体験を踏まえて日本人に伝えてもらうこと。そしてその占領がパレスチナ社会だけではなく、イスラエル社会にどういう影響を及ぼしているのか。さらにそれは国際社会に、どういうインパクトを与え、また今後、与えていくのか、を伝えてもらうことだ。

 もう1つは、ハス氏を通して、日本の中に“パレスチナ”を見出すことである。“パレスチナ”は日本人にとって、地理的にも心理的にも遠い。しかし“パレスチナ”が内包し提示している問題は、決して中東という地域に限ったことではないはずだ。その本質的な問題、“普遍性”は日本自身が抱える問題の中も共通するものがあるはずだ。それをハス氏に見出してほしいという願いがある。
 具体的には、70年以上も米軍に支配される “オキナワ”の現状を、長年パレスチナで“占領”の現場を目撃してきたハス氏の目を通して、そこに“パレスチナ”と相通じる“普遍性”を発見してもらうことだ。そうすることで“パレスチナ”を日本人に引き寄せ、他方で“オキナワ”を、ハス氏を通して世界に伝えていけるという期待である。

 “パレスチナ”と“オキナワ”の接点を探るもう一つの試みとして企画したのが、沖縄と米軍との関係の歴史と現状を描いた映画『沖縄 うりずんの雨』のジャン・ユンカーマン監督とアミラ・ハス氏の対談である。ユンカーマン氏はアメリカ人として、自国の“加害”を映画で伝えた。一方、ハス氏はイスラエル人として自国の“加害”である占領を伝え続けている。
 この2人に“パレスチナ”と“オキナワ”が共有する普遍性を語ってもらうと共に、自国の“加害”を伝えることの意味を、それを最も苦手とする私たち日本人に提示してもらえればと願っている。

 「なぜ日本人ジャーナリストが遠い“パレスチナ”を伝え続けるのか」と、私は長年問われ続け、自問もしてきた。そして関わり始めて30数年経った今、行きついた結論は、「日本と“パレスチナ”の“橋渡し”をする」ということだった。
 つまり私たち日本人が“パレスチナ”と向き合い、その“鏡”に映し出される自身の姿を見つめなおすような場を作る──そういうふうな日本とパレスチナの“橋渡し”こそ、長年“パレスチナ”と関わった日本人ジャーナリストとして私がやるべきことではないかと考えた。アミラ・ハス氏の日本招聘は、私にとって、その活動の一環である。

アミラ・ハス氏 来日スケジュール

  • 2017年9月17日(日)/18日(月・祝)
    東京大学(本郷)
  • 2017年9月20日(水)
    文京区民センター

ほか、沖縄・京都・広島

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