Webコラム

証言ドキュメンタリー映画『福島は語る』の評論:花田達朗氏

2019年2月7日(木)

以下の文章は、花田達朗氏(フリーランス社会科学者)が個人サイト「サキノハカ」に2月5日に掲載された文章(ドキュメンタリー映画『福島は語る』を観た)ですが、著者の了解を得て、ここに転載します。

ドキュメンタリー映画『福島は語る』を観た

花田達朗

 昨日、2月4日、土井敏邦監督のドキュメンタリー映画『福島は語る』を試写会で観た。14人の「被災者」のインタービューである。「フクシマ」についてのドキュメンタリーはこれまで何本も観てきたが、これは次元を超えている。月並みな言葉ではあるが、「最高傑作」だと思った。どうして私をしてそのように言わしめるのか。
 理不尽さに対する悔しさ、怒り、無念さ、悲しみ。それらが深いところから、つまりこれまでじっと耐えて沈黙してきた深度から、肉声と表情で表出され表現されている。そのことによって、悔しさ、怒り、無念さ、悲しみがその深さと重さにおいて私たちに伝達可能になっている。私たちの方からすれば、つかもうとする意志さえあれば手が届くという形になっている。私がこれまでの様々な表現物にもどかしさを感じてきたのは、その深度に届いていないのではないかと感じさせられたからだ。この土井さんの作品によって、私たちはやっとその深度に届く手段を得ることができたと言える。この映画を観たあと、それから先のことは、それぞれの個人の領域の問題だ。私たち一人一人が考え、感じるための手段が与えられたということだけは確かなことだ。
 「被災者」とは原発事故の犠牲者である。「犠牲者」と定義しなければならない。この世界、この社会は犠牲者を生み出しながら進んでいく。そこにおいて、犠牲者とは多くの場合、沈黙を強いられて、沈黙に行き着く。自分のことを「わかってほしい」と他者に語ることを試みたとしても、多くの場合、他者に拒絶されるからだ。犠牲者は少数者へと追い込まれ、それ以外の多数者はその少数者を記憶と視野から消し去っていく。記念日ごとに思い出しているかのように演出してみたところで、それは自分たちの不作為を正当化するための偽装でしかない。
 ある日突然放射能によって日常と生業、自然と故郷を奪われた理不尽さ、そして犠牲者としてその理不尽さを語ることを奪われた理不尽さ、犠牲者はこの二重の理不尽さのなかを生きている。その接合した二重性が固い沈黙を生み出す。そのことを、ここに登場する福島の14人の人々は体験し経験してきたということがわかる。
 土井監督は、そこにできあがった深く固い沈黙を切り開き、その人々から発話と表情を獲得して、私たちに映画という形で手の届くものにしてくれた。そのことによって、このドキュメンタリーに登場した人々、さらには同じような経験をした多くの「犠牲者」たちは、その思いが言葉と表情で語られ、他者に届けられる可能性を得たことによって、その思いのある部分だけだとしても救済されたと感じるのではないだろうか。どのような形、どのような手法によってであれ、権力の「犠牲者」を救うこと、それこそがジャーナリトの役割なのだ。
 なぜこの14人の人々は沈黙を破って、語り始めたのだろうか。しかも深く豊かな言葉によって……。それは映画のなかでも聞こえてくるように、土井さんの問いかけがあったからであり、その横にカメラが据えられていたからである。証言した人々は土井さんに向かって、土井さんの目を見て、語っている。土井さんだからこそ語っているのである。そして、それが映像に記録されていることを意識し、受け入れたからである。公開され、他者に見せられることを受け入れて、語っている。カメラのレンズの向こうに、これまで沈黙を強いてきた、見えない他者たちを見据えて、語っている。したがって、これは証言者個人、インタービュアー、見えない他者たちの3者の間の対話の試みなのである。その3地点からなる構図のなかで、証言者たちは真剣勝負をしている。
 福島の証言者たちに犠牲を強い、さらに沈黙を強いたのは私たちだ。私たち、多数者だ。証言者たちはインタービュアーに対して語っているようで、本当はそのようにして、そのようなやり方で私たちに向かって語っている。私たちは、私たちによって二重に犠牲にさせられた人々の、壮絶な痛みをわかることができるのだろうか。映画は、私たちにそれを問いかけている。
 作品のタイトルは『福島は語る』である。沈黙というテーマを表に出せば、「福島が沈黙を語る」となるのではないか。実に、一連の土井作品のテーマは「沈黙」なのだと私は思う。沈黙監督と言ってもいい。土井さんはドキュメンタリー映画『沈黙を破る』で、2009年の石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、キネマ旬報ベストテン文化映画部門第1位を受賞された。この映画もまた、パレスチナ紛争のなかで「語られないこと」、つまり沈黙の、その深さに迫り、それを可視化した作品だった。単に紛争地の情景を撮影するのではない。紛争地の現場に行くことは簡単なことではないだろう。しかし、情景は現場に行けば目に見えるものだ。『沈黙を破る』はそうではない。土井さんは暴力の、見えない構造を映画という手段で可視化した。この映画も中東紛争についてのドキュメンタリーのなかで通常の次元を超えていた。

 今、ドキュメンタリー映画『福島は語る』は、原発メルトダウンの3.11から8年目となる2019年3月に公開されようとしている。それだけの時間を寝かせたからこそできた作品ではないかと思う。言葉の醗酵には必要な時間というものがある。映像の編集においても醗酵時間は必要だろう。ちょうど福島の酒造りのように……。2018年の全国新酒鑑評会で、福島県の酒は金賞を受賞した銘柄の数において6年連続日本一を達成した。今の仕事が一段落したら、また福島に酒を飲みに行こう、人に会いに行こう、そう思いながら、私は試写場から夕暮れの街に出て、いつもより確かな足取りで歩いた。
 私が試写会で観た、劇場版は2時間50分。3.11に合わせて、東京では3月2日からその劇場版のロードショーが始まる。そのすぐ後、全国で一斉に上映するそうだ。それはいわゆる短縮版で、それとは別に5時間30分の長時間版が存在するそうだ。

証言ドキュメンタリー『福島は語る』公式サイト

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