Webコラム

日々の雑感 84:
学生ボランティア

2008年5月4日(日)

 一昨日、“新米記者”が我が家を訪ねてきた。今年の春まで、私のボランティアをしてくれていた横浜国大の卒業生で、この春、ある地方紙に就職したばかりの青年である。記者となってまだ1ヵ月だが、彼は、自分の写真が初めて一面に掲載され、他にも2本の写真入りの記事が載った前日の新聞を持参してきた。照れくさそうに、でもちょっと誇らしげに新聞を見せるその“新米記者”のKさんに、2年半ほどつきあってきた私は感無量だった。巣立っていき、成長した元ボランティアの姿がうれしかった。
 彼と出会ったのは、2005年の秋だった。横浜国大の「国際共生学科」で2回にわたって私が“パレスチナ”の講義をしたとき、当時2年生の数十人の学生たちに、自分がパレスチナ映画を作っていること、そして映画制作の手伝いを通してパレスチナについてもっと知りたいと思う学生をボランティアとして募集していることを告げた。希望者はその動機や特技をメールするようという私に、自分がライターになりたいという夢を長い文章で書き送ってきたのがKさんだった。私の呼びかけに応じて、そのクラスの学生が10人近くボランティアに応募した。私は説明会をかねて、彼らを自宅に招き、手作りのカレーをふるまった。しかしその後、一度も顔を見せない学生も少なくなかった。私のカレーの味が原因だったのか、と今でもそれが気になっている。
 結局、4年生になるまで続いたのはその中の3人だった。中でもKさんは、その後、ボランティアに加わった後輩たちをまとめるリーダー格となり、ドキュメンタリー映画制作の支援組織「土井敏邦 パレスチナ記録の会」のボランティア、そして学生ボランティアたち自身が企画する学習会の“牽引者”としてなくてはならない存在となった。
 「映画制作のボランティア」といっても、まったく映像の知識も経験もない学生たちに映像の編集作業そのものを手伝ってもらうわけにはいかない。だから作業内容は、映像のコピー、インタビュー・テープの文字起し、資料の切り抜きなど単調な作業である。そんな彼らの作業に私はずいぶん助けられた。5月9日に出版する『沈黙を破る─元イスラエル軍将兵たちが語る“占領”─』(岩波書店)の中の1章をなす精神科医・野田正彰氏の分析を文章化するために、7時間近い野田氏へのインタビュー・テープを分担して文字起ししてくれたのは彼ら学生ボランティアたちだった。1年半前から取材を続けている「君が代・不起立」の根津公子さんへの長いインタビューも、彼らの力を借りて文字化できた。
 しかしそれは彼らにとっても一方的な“奉仕”ではないと私は勝手に考えている。文字起しを通して、野田氏や根津さんなど直接接触することが難しい著名な人たちの肉声とその思想に触れることで、彼らが何か刺激を受けることができればと願っている。また私の手元にあるさまざまな映像をコピー作業や資料の整理を通して、これまで決して知る機会のなかった世界の現実や、さまざまテーマに触れるきっかけにもなるはずだ。私が制作する種々の映像も我が家での学生ボランティア向けの試写会で真っ先に彼らは目にする。雑誌で私が発表する記事も、まだ原稿の段階で、彼らは“最初の読者”となり、自由に批評する機会もある。彼らが主催する学習会も、優れたジャーナリストたちと学生たちが接し刺激を受ける機会になればと、私の周囲のジャーナリストたちを彼らに紹介してきた。
 それでも、私の元でのボランティア活動はあまり有益でないと思う学生たちは去っていく。実際、2、3度来ただけで、以後現われなくなる学生たちも少なくない。それはそれで仕方がない。ただ何かを得たいと食いついてくる学生たちには、私が持っている知識、経験、人間関係をできうる限り提供していきたいと思っている。だから私と学生ボランティアとの関係は、「一方的な奉仕」ではなく、“ギブ・アンド・テイク”である。

 私のボランティアを体験し、その後おもしろい生き方をする人もいる。“新米記者”Kさんの1年後輩のTさんは、なんでも吸収しようとする、ものすごい向上心をもった女性である。私の手元にある本やドキュメンタリー映像も、どうしても見たい、読みたいと次々と借りていき、次に現われるときはその感想を嬉々として語ってくれる。若い人たちにこの人物には会ってほしいと私が尊敬する人たちを紹介すると、すぐに会いにいき、関わり続ける。私がドキュメンタリー番組を作った韓国の元日本軍「慰安婦」たちの施設「ナヌムの家」で開かる日韓学生の討論合宿にも、彼女は昨夏、飛び込んでいった。そのTさんは、今年夏から、2年間大学を休学し、青年海外協力隊の一員としてニカラグアへ向かう。その報告を最初に受けたとき、私は心底うれしかった。日本でのどんな勉強より、彼女のこれからの人生を大きく切り拓く、願ってもない絶好の機会になると思うからだ。2年後、彼女はどれほど成長して帰ってくるのか、楽しみである。
 学生ではないが、ピアニストのNさんも私の元へ1年近く通ったボランティアだった。Nさんは、06年秋、レバノン戦争に関する私たちの報告会に参加して、「とても刺激を受けた。もっと詳しく話を聞きたい」とメールで書き送ってきた。私と同じ佐賀出身だというので、会って話を聞いてみることにした。東京の音楽大学を卒業後、アルバイトをしながらピアノの修行をしているという彼女は、その後、私の家にボランティアとして通い始めた。とは言っても、私の元では彼女の音楽の才能を生かす仕事などあろうはずはなく、彼女はひたすら「パレスチナ記録の会」のパンフレットの折り込みや新聞の切り抜きの作業を続けた。しかし彼女も先のTさんと同様、もの凄い吸収力を持っていた。私が薦めるドキュメンタリー映像や本を次々と借りていく。その彼女の感想に、並々ならぬ感性が読み取れた。とりわけパレスチナ関連の映像や書籍に彼女は強い関心を示した。私が紹介した根津公子さんの元へも通い始め、その生き方に強い感銘と刺激を受けた彼女はその後、根津さんの支援活動にものめり込んでいった。
 昨年、Nさんのピアノ、だるま森さん&えりこさんの人形芝居、国分寺エクスペリエンスの唄、そして私の映像と講演を組み合わせた公演「どがんすっとね?パレスチナば、日本ば!」を横浜と佐賀でやるきっかけも、Nさんの発案からだった。その公演会で、私は初めて彼女のピアノ演奏を聴いた。私は正直、仰天した。これほどの才能のあるピアニストに私はパンフレットの折り込みや新聞の切り抜きのボランティアをさせていたのかと思うと、ぞっとした。しかし、公演会を聴きにきたNさんのお母さんが「娘の音色が変わった」と聞いたとき、私は少しほっとした。彼女が私のボランティアをすることがきっかけとなって出会った根津公子さんや“パレスチナ”によって、彼女が人間的に大きく成長し、それが音楽に反映しているというのだ。そのNさんもこの4月からドイツへ音楽留学した。彼女がまた一回りも二回りも大きく成長して帰国する日が楽しみである。

関連リンク:土井敏邦 パレスチナ記録の会

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