Webコラム

日々の雑感 153:
パレスチナ日記 5

2009年8月31日(月)私のなかの“ガザ”

 「もし、このままプレスカードが取れなかったら」つまり「ガザに入れなかったら」と考えるとき、私の“パレスチナ”との関わりの中で、“ガザ”という土地とそこで出会った人びとが、自分にとってどれほど大きな存在だったかを改めて実感せざるをえない。
 私が“パレスチナ”と出会うきっかけになったのもガザだった。映画『沈黙を破る』のパンフレット(Webコラム「パレスチナと私」に掲載)の中にも書いたが、世界放浪の旅を続けていた学生時代、サハラ砂漠縦断の旅の途上で出会ったある日本人青年に感化され、1978年1月、私は初めてイスラエルを訪ね、「キブツ(農村共同体)」に入った。そこでのユートピアのような生活の中で、私は「今度、生まれてくるときは、ユダヤ人としてイスラエルに生まれてきたい」と言って憚らないほど、「親イスラエル」の日本人になっていた。そんな当時の私の“イスラエル観”を叩き壊されたのが、6ヵ月のキブツ滞在終了間際に、オランダ人の友人に誘われて訪ねたガザだった。
 私たちが訪ねたのは、ガザ市郊外のビーチ難民キャンプだった。ブロック作りの貧弱な家々が密集し、あたりはビニール袋や生ごみなどが散らかり、路上には下水が流れ悪臭を放っている。そして人、人、人……。その雑然とした光景と喧騒は、芝生の緑に囲まれて整然としたキブツの美しい景観とはまったく対極の世界だった。
 しかし、そこで出会った青年たちから投げかけられた問い──「君が今暮らしているキブツが、誰の土地だったか知っているか?」という問いかけが、私の“パレスチナ”との出会いの瞬間だった。もしあの時、私がオランダ人の友人とガザを訪ねていなかったら、私のその後の人生は、まったく違ったものになっていたに違いない。
 今年5月に映画『沈黙を破る』が公開される直前、私を“パレスチナ”へ導いたそのオランダ人の旧友から突然、メールが舞い込んできた。最後に彼に会ったのは、私が1986年秋、1年半のパレスチナ取材を終えてアメリカへ向かう途上に立ち寄ったオランダでのことだったから、もう23年も前のことである。以来、音信不通になっていたのに、突然のメールである。その2ヵ月後の6月中旬、彼は奥さんと2人の子どもを連れ、観光のため日本へやってきた。再会した友人は、長身でほっそりとした当時の面影から遠くかけ離れ、大きなおなかをした巨体の中年男性に変わっていた。彼は今、シンガポールに拠点を置き、世界各地に支店を持つ金融アドバイス会社の会長になっていた。「Toshikuni DOI」とインターネットで調べたら、私のHPとそのメール・アドレスがわかったというのだ。それにしても、私のパレスチナ取材の集大成である映像シリーズ『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』を私が完成させたばかりの今、私を“パレスチナ”へ導いた張本人が目の前に現れるというのは、なんという偶然だろう。「君のせいで、私はこういう道を歩くはめになったんだよ」と言うと、「でも、悪い道ではなかったろう?」と旧友は笑った。

 1985年春から翌年秋までの1年半、私が取材のためにパレスチナの占領地に滞在していたとき、しばしばガザ地区を訪ねた。当時、私が取材の拠点としていたラマラの郊外のビルゼート大学には、ガザ地区出身の学生たちが少なくなかった。大学で出会った彼らの実家を私はよく訪ねて回った。またガザ北部や中部の農村の家庭に住み込み、ガザの農業の実態を取材したのもこの頃である。
 当時、ビルゼート大学で出会ったガザ出身の学生たちの中には、その後、パレスチナ社会で重要な役割を果たすようになった者も少なくない。ベイトハヌーン町出身でPLO左派PFLPの学生運動のリーダーだったカーセムは、今や、パレスチナのみならず中東全体をカバーする報道機関に成長した「ラマタン」の創設者で、現在もその代表である。
 「パレスチナ人権センター(PCHR)」代表ラジ・スラーニと出会ったのも、この頃である。当時ラジは、3年間にも及ぶ投獄生活から解放されたばかりだった。自殺さえ考えたと後に彼が告白する過酷な拷問に耐えてきた直後だっただけに、その表情は暗かった。その後、20数年経った今も、ラジは私の友人であり“パレスチナ問題の師”である。

 私がガザを想うとき、そのラジと共に、真っ先に脳裏に浮かんでくるのは、オスロ合意直後から住み込み、その後の6年間を映像で記録したジャバリア難民キャンプのエルアクラ家の家族たちである。15人家族のうち働いているのは1人だけ、「貧困」を絵に描いたような家族だったが、家族間の強い絆、周囲の隣人・友人たちとの濃い人間関係を、私はいっしょに暮らすなかで、肌で体験した。“物理的な貧困”のなかでも、“豊かな心と明るさ、豊かな人間関係”を失わないこの家族とその周囲の住民たちの姿は、“ガザとそこで生きる人びと”の強烈なイメージとして私の胸に刻まれることになった。
 その後、私はガザでいくつもの“エルアクラ家”と出会うことになる。もちろん、その後も続く“占領”の抑圧と生活苦から、否が応でも噴出してくる“醜部”もたくさん目にし、体験してきた。しかし不思議と私の記憶に深く刻まれているのは、ガザの人びとの“人の暖かさ”“素朴さ”“明るさ”などポジティブな面ばかりだ。たしかに「幻想」の部分も少なからずあるだろう。しかしあれほどゴミにまみれて汚く雑然とした景観、またあれほどの貧困状態にも関わらず、私にとって少なくとも暮らして不快な場所ではなかった。むしろ“居心地のいい場所”と言ってもいい。
 一方、ガザは、現在のパレスチナ問題を凝縮している場所とも言える。昨年暮れからのガザ攻撃に象徴される“殺戮”や“破壊”だけではなく、現在も続く“封鎖”つまり“占領”の実態を凝縮したかたちで目の当たりにする場所だからである。

 私はジャーナリストとしても、また人間としても、“パレスチナ”に育てられたと思っている。つまり“パレスチナ”は私にとって“学校”だった。その“パレスチナ”という言葉は “ガザ”という言葉に言い換えてもいいかもしれない。それほど、私の“パレスチナ体験”での“ガザ”の占める部分は大きかった。
 そして今、私は「プレスカード発行拒否」という現実の前に、その“ガザ”から切り離されようとしている。

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