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日々の雑感 167:
『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(後編)

日々の雑感 164:『トーラーの名において』から(前編)
日々の雑感 166:『トーラーの名において』から(中編)

2010年5月22日(土)

『トーラーの名において』
──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)

 シオニズムと反ユダヤ主義との関係についても、私がイスラエル人たちへのインタビューの中で直接聞き、またメディア報道の中で断片的に語られ、私の中で漠然と感じとってきたことを、ラブキン氏は明確に文字化してみせている。

「ディアスポラの地に住む多くのユダヤ人は、みずからのユダヤ人としての主たる役目はイスラエル国を擁護することであると考え(「その立ち振る舞いの正邪にかかわらず、イスラエルこそ、われらが祖国」)、この点についてはいかなる反論も受けつけようとはしない。その情緒の高ぶりを示す一例として、たとえばカナダの有名なラビが、ある時、イスラエルの政策によってディアスポラのユダヤ人を危険にさらしていないかと問いかける一文を書いたユダヤ教徒を『ユダヤの民の最大の敵』と評したことがある。(中略)あるハレーディのラビが透徹した皮肉とともに指摘したように、今日、人はみずからの宗教に対する批判は甘受できるが、みずからの偶像崇拝への批判はどうしても我慢ならなくなっている。つまり多くのユダヤ人たちの価値体系においてイスラエル国が神に取って代わっており、その点では一部のラビたちも例外ではないということだ。事実、多くの宗教=民族派(ダーティ・レウミ)のユダヤ教徒のもとで、『特定の社会=政治構造を絶対の領域に移行させ、そこに超越的な価値を付与し、その社会=政治的構造を神聖化することをもって宗教信仰の役割とみなす』傾向が顕著になっているからだ」

「シオニズムとは、ユダヤ史における断絶であり、ユダヤ人の集団意識における不連続点であり、ユダヤ教に対する公然たる挑戦である」

「イスラエル支持の姿勢が新しいユダヤ・アイデンティティーの核になる時、イスラエルに対するほんのわずかな疑義の提示さえ不可能となるのだ」

「ショアーに関する西洋の罪悪感が、いつの日か、ツァハル(イスラエル国防軍)の軍事行動に対する批判意識と釣り合ってしまうであろう瞬間、今度はイスラエルに起因する暴力によって呼び覚まされた諸国民の怒りが全ユダヤ人(教徒)の頭上で猛り狂うことになるのではないか」

「(シオニストたちも、手遅れにならないうちに国家を解体すべきであると主張するユダヤ教・反シオニストたちは、)1つの共通見解を分かち合っている。つまり、両者とも、この中東の一廓がシオニスト国家の存在をその懐に受け入れることは断じてあるまいと感じている。そればかりか、両者とも、今、〈イスラエルの地〉において、ユダヤ人が集団的殺戮の脅威に直面していることを認める点ではまったく見解を一にしているのだ。違いはただ、シオニストたちがこの殺戮を阻止するのは国家であると考えているのに対し、その敵対者たちの方では、ほかならぬ、その国家こそが、殺戮の脅威の紛うことなき責任主体であると見ている点だ」

「皮肉なことに、ユダヤ人を反ユダヤ主義とゲットーのような生活から解放し、彼らに安らぎの地を提供するために創られたはずのイスラエルが、まさに軍の駐屯地のような国家となり、敵意に満ちた隣人たちに包囲される地上の巨大なゲットーにも似た国になってしまった〔…〕数々の不吉な予感は〔…〕今なおシオニストたちの脳裏にまとわりついて離れない」

 以上、ラブキン氏の『トーラーの名において』の中から、私が感銘を受けた文章を拾ってみた。
  前述したように、“ショアー(ホロコースト)を“免罪符”にして、パレスチナ人に対する抑圧と迫害を正当化するイスラエルのシオニストたちへの筆舌しがたい疑問と怒りを抱いている者たちに、明確な1つの答えを活字化して提示してくれる本書は、溜飲が下がるような爽快感を与えてくれる。しかも、著者が敬虔なユダヤ教徒であるがゆえに、「反ユダヤ主義者」の根拠のない誹謗中傷とは違い、実に説得力がある。
 ただ、同じユダヤ人の見解だとしても、そして「世界でベストセラー」になったほどの著書とは言え、果たして、当事者のイスラエル国民(大半はシオニストといえる)にどれほどの説得力を持ち得るだろうか。そして当のイスラエル人に、パレスチナ人に対する対応を一考させるだけの力が果たしてあるのだろうか。ショアーさえ「ユダヤ教徒を改悛に導くために用いられる残酷な手段」とし、ヒトラーのような加害者も「神の懲罰の代行者」とする見解には、イスラエル人に限らず、世界中のほとんど非宗教的ユダヤ人の間に、激しい反発と怒り、憎悪を掻き立てるに違いない。そして「イスラエルの“敵”への利敵行為」「ユダヤ人同胞への“裏切り者”」といった罵言を浴びせられるか、完全に無視されるのではないかと懸念する。

 ラブキン氏の「ショアー対するシオニストたちの反応」に関する記述を読みながら、私は「ヒロシマと日本人」のことを思い起こしていた。
 今年1月、私は『中国新聞』の連載「緑地帯」で、次のような一文を書いた。

 あのガザ攻撃を約90%のユダヤ系イスラエル市民が支持した。彼らは「イスラエル南部は長年、ガザからのロケット弾攻撃にさらされながら耐えてきた。もう我慢の限界だ。ガザ住民は今、その報復を受けているんだ」と攻撃を正当化する。だが、彼らに全く見えていないことがある。「パレスチナ側のテロとイスラエル側の報復」「暴力の応酬と悪循環」という“現象”ではなく、パレスチナ側を攻撃に駆り立ててしまう“占領”というパレスチナ・イスラエル問題の“構造”だ。自分たちが“占領”によってパレスチナ人を踏みつけ続けている現実に、大多数のイスラエル市民は目を背け続けているのである

 なぜイスラエル人には加害の認識がないのだろうか。「国民は事実を知ってはいるが、“痛み”を感じないのだ」と言うのはホロコースト生存者を父に持つ、エルサレム市議会議員メイル・マーガリット氏だ。“痛み”を感じさせない“心の鎧(よろい)”が「ホロコースト・メンタリティー」だと氏は指摘する。「自分たちユダヤ人は史上最悪の残虐を受けてきた最大の犠牲者なのだという意識が、自分たちが他者に与える苦しみへの『良心の呵責(かしゃく)』を麻痺(まひ)させている」というのだ。私自身、現場で「2度とホロコーストを体験しないために、少々の犠牲は仕方ない」と、パレスチナ人への加害を正当化するイスラエル人の声を何度も聞いた。
 真の被害者たちを置き去りして、「自国民が受けた被害は特別で、他の被害とは比較にならない」と主張し、自国の被害を加害の現実と歴史の“隠れみの”にする例は、何もイスラエルに限ったことではない。“ヒロシマ”もまた、日本の加害歴史を否定する勢力によって“隠れみの”として利用されてきた一面があると指摘する声は、日本の侵略で何千万人ともいわれる犠牲を強いられたアジアの人たちの中に少なからずある。また、日本の平和主義が「被害者としての自覚に支えられた」(政治学者・藤原帰一氏)という指摘もある。つまり加害の視点が加わると、その「平和主義」の基盤が揺らぐのだ。“ヒロシマ”の弱点も、まさにそこにあるような気がする。
『中国新聞』コラム「緑地帯」より)

 もちろん「ホロコースト」と「ヒロシマ」は同じではない。歴史的な時代背景も、問題の起源も、さらに問題が続く長さもまったく異なる。
 大きな違いの1つが、前者が「『ポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害)』や『ホロコースト』に象徴される“被害”の後にパレスチナ人に対する“加害”が起こり、後者ではアジアへの侵略・略奪・殺戮という“加害”の後に、原爆投下という“被害”を被ったことだ。つまり前者では、その“加害”の後ろめたさを打ち消す“免罪符”として、その以前に起こった“被害”を持ち出すことが容易であったが、後者では“加害”を正当化する根拠がほとんどなく、無理に持ち出そうとすれば、せいぜい「欧米諸国による“経済封鎖”の包囲網のなか、アジア進出は日本が生き延びる唯一の道だった」「欧米諸国による植民地化からアジアを解放し大東亜共栄圏を創るためだった」というこじつけの「大義名分」ぐらいで、他国とりわけアジア諸国にはほとんど説得力がない。
 ただ“被害”と“加害”の順序は逆であっても、“加害”への非難をかわすために、また自らの“加害”に目を背け後ろめたさを感じないための“免罪符”として“被害”が利用されることがあるという点では類似している。

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